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II. バスク海岸の子ども時代

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著者マデリーン・ゴス(1892 - 1960)はラヴェルの死後まもなく、英語による最初の評伝を書いたアメリカの作家です。ゴスは当時パリに滞在しており、ラヴェルの弟エドゥアールやリカルド・ビニェスなど子ども時代からの友人や身近な人々に直接会って話を聞いています。『モーリス・ラヴェルの生涯』は"Bolero: The Life of Maurice Ravel"(1940年出版)の日本語訳です。

・ラヴェルの出自と家族
・誕生、子ども時代、幼少期の興味
・音楽をはじめる、最初についた先生たち

 シブールはフランス最南西部にある小さな村で、東側のサン=ジャン=ド=リュズとは、川を挟んで橋で接している。目の前には大西洋が開け、背後には美しいピレネー山脈がそびえる。これほどロマンあふれ、不思議な伝説や歴史に満たされた場所も他にないだろう。

 ここはバスク地方と呼ばれる、誇り高き人々の国であり、伝説の島アトランティスの神話が伝わる土地とも言われる。ピレネー山脈の北と南にまたがって住むバスク人たちは、自分たちを他のヨーロッパ人とは違う人種であると認識している。バスクの言葉は他の地域、国々とは共通性がなく、また彼らの気性や生活習慣も独特のものがある。フランス人でもスペイン人でもなく、とはいえ温かな心と冷たい知性の入り混じった性格や肌色、近隣の南部の人々のリズム感といった両者の特徴をいくらかは分け持っている。しかし彼らは自分たちの独自性を守ろうと、フランス、スペインどちらの国にも忠誠を誓うことがない。
*写真:シブール、by Harrieta171(CC BY 2.5)

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 バスクの男たちは背が小さく、ずんぐりと頑丈で、日焼けした褐色の肌をもっている。昔ながらのベレー帽に幅広の色もののサッシュをまとい、好きなスポーツといえば釣りとこの地域の伝統ゲーム、ペロタである。バスク人はもともと控えめで、口が重く、とはいえ詩的で、美しさに敏感なところがある。なにより特別なのは、その自尊心と繊細さで、感じやすさは人一倍なのに、感情を見せることを良しとしない。

 モーリス・ラヴェルの母親、エリュアーテが生まれ、育ったのはこのシブールのバスクの村だった。エリュアーテの父親は、その父、祖父につづく船乗りで漁師だった。この三人はみな、海に身を捧げ、また村の背後に迫る山々に対しても同様だった。素朴な人々だったが、感受性やきめ細かな愛情において良きものをもっていた。

 シブールは地理的にはフランス側のピレネーのすぐ北ではあったけれど、人々の気質はピレネーを挟んだ南部の人々に近いように見える。エリュアーテはスペインに親戚があり、成長するとそこに住む家族の元に送られた。スペイン北部のカスティーリャ砂漠*にあるアランフェスにいるとき、エリュアーテはスイス出身の鉱山技師のジョゼフ・ラヴェルと出会った。ジョゼフはスペインの新しい鉄道建設に手を貸していた。それから2、3ヶ月後、1874年にバスクの娘エリュアーテは、スイスの鉱山技師と結婚した。
*現在のカスティーリャ・イ・レオン州であると思われる。アランフェスはマドリード州のものとは別の同名の地名ではないか。

 ジョゼフ・ラヴェルの家族は、オート=サヴォワ県(フランス)のアヌシーに近い、コローニュ=ス=サレーヴの小さな村の出だった。ジョゼフの父、エミはジュネーブからそう遠くない小さな町、ヴェルソワに移り住み、スイスの国籍を取得していた。ラヴェル(Ravel)の名は、おそらく元はラヴェックス(Ravex)、ラヴェ(Ravet)、あるいはラヴェズ(Ravez:この三つの発音はどれも似ている)で、ジョゼフの洗礼の際、彼の祖父の名前はフランソワ・ラヴェックスとして教区に登録され、その2、3年後、祖父の死の記録の際には、フランソワ・ラヴェとなっていた。

 多くの人から(中でもアメリカでは)、モーリス・ラヴェルはユダヤ系ではないかと見られている。ラヴェルの伝記作家として知られるロラン・マニュエルは、苗字のラヴェルがラベレ(Rabbele:小さなラビ)と似ているからではないかと言う。またラヴェルは生涯を通じて多くのユダヤ人と交流があり、ヘブライ語の歌を作ってもいる。しかしラヴェルの両親のどちらにも、ユダヤ系を示す記録は何もない。
*参考:ラヴェル自身によるユダヤ人ではないことを書いた手紙

 ジョゼフの父のエミはヴェルソワに移り住んだのち、ある者はパン屋になったといい、また別の者は陶器製造者になったと言っている。エミはスイス人の女性キャロリン・グロフォーと結婚し、5人の子どもをもうける。娘が3人、そして息子のジョゼフとエドゥアールの2人だ。弟のエドゥアールは名の知れた画家となり、ジョゼフと妻のマリー・エリュアーテの肖像画は、今もモンフォール=ラモーリーのラヴェルの書斎に飾られている。

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 ジョゼフ・ラヴェルは音楽に強い興味をもっていた。若き日にはコンサート・ピアニストになりたいと思っていた。ジュネーブの音楽学校で数年間学び、演奏で賞も得ている。しかし音楽と同じくらい機械学の能力と発明の才能があり、工学への道に進むことになる。スペインに行く前に、ジョゼフはすでにガソリンで走る車を発明しており*、近代の自動車発明の先駆者だった。

 ジョゼフがマリーと出会ったとき、すでに42歳になっており、妻よりかなり年上だった。しかしこの年の差は、むしろ二人の結束を強め、互いへの献身は、モーリス・ラヴェルの子ども時代形成のための、しっかりとした基盤となった。
 
 ジョゼフは結婚後、すぐに妻をパリに連れ戻したいと思っていた。しかしマリーは妊娠を知って、子どもが生まれるまで両親のいるシブールに残りたいと言った。「パリは寒くて天気も悪いから」とマリー。「わたしたちの子どもは、穏やかな、暖かな自然の中で生まれるのがいい」。 1875年3月7日、モーリス・ラヴェルはピレネー山脈の麓の村、シブールのニヴェル河岸通り*12番地にある(サン=ジャン=ド=リュズに面した)昔風のイタリア様式の家で生まれた。大洋の波音に抱かれ、ピレネー山脈の影につつまれ、ジョゼフ・モーリス・ラヴェルはここで産声をあげた。
*ニヴェル河岸通りはその後「モーリス・ラヴェル河岸通り」となった
下:シブールの司祭によって複写されたラヴェルの洗礼証明書

洗礼証明書

 誕生後2、3ヶ月して、ラヴェル一家はパリへ戻った。シブールとサン=ジャン=ド=リュズはモーリスの故郷ではあったが、パリは生涯の活動の中心地となった。ラヴェル一家は機会をとらえては、夏にシブールへ旅した。最後の日々にも、ラヴェルは子ども時代の記憶をたぐり寄せ、スペインのリズムや音色と親密な美しいバスクの風景を思ったという。

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 モーリスはほっそりとした、繊細な子どもに成長し(いつも年齢の割に小柄だった)、黒くカールした毛に、母親似のバスク特有の深く窪んだ中央に寄った目をもっていた。また母親の優しさも合わせもち、母親が自分の子ども時代や村の人々の話を聞かせるのを、静かにすわって何時間でも聞いていた。民話やおとぎ話はモーリスの大好きなものだった。モーリスは現実とのはざまにある謎めいた世界に親近感をもっていた。そしてこの感覚は生涯のものとなった。のちにラヴェルは子ども時代に聞いた話の数々を、鋭敏な感覚で音楽詩にしている。

 子どものモーリスは、人々が村の中央に集まり、ファンダンゴを踊ったり、音楽を演奏したりするシブールの祭りの日々が何よりも好きだった。群衆の陰で母親のそばに立ち、ダンスを見、ギターやマンドリンの音に夢中になった。音楽の伝搬力に目覚め、深く反応し、のちの音楽の基盤となるリズムをその内に育てた。

 モーリスは大きくなるにつれ、茶目っ気ぶりを発揮していく。手品や魔法に興味をもち、友だちを驚かせるようなことが書いてある本を、小遣いをためては買っていた。この少年の頃にもっていた人をびっくりさせる茶目っ気は、生涯なくすことがなかった。これは友だちに愛されたり、ラヴェルの特徴的な音楽をかたちづくる資質となった。

 建物が立ち並ぶ、パリの小さな路地にあるラヴェル一家のアパートは、わずかな家具と最低限の生活用品しかなく、それは父ジョゼフの財が乏しく、また発明のための資金をいつも必要としていたからだ。とはいえ一家は貧しさを感じることなく、欠けているものは家族間の愛情や互いへの献身で補っていた。

 「今にみてろ、マリー」とジョゼフ。「いずれわたしの発明した機械で、金持ちになるからな」 そんな日が来ることはなかったが、妻のマリーは充分に満足していた。マリーは贅沢な暮らしや、女性の多くがほしがる装飾品には頓着しなかった。マリーにとって、自分の家庭と友だち(中でも子どもたち)がいれば充分だった。

 パリに移って3年後、もうひとり息子が生まれた。スイスにいる著名な画家である叔父にちなんでエドゥアールと名づけられた。エドゥアールは父親の工学能力をかなり受け継いでいた。音楽の能力も高かったが、兄の才能のため、影が薄かった。ただエドゥアールは兄を羨んだりせず、そればかりか大きな愛と尊敬の念をもっていた。兄が傲慢な態度に出ても、疑うことなくそのあとに従った。「支配的なところはあったけれど、優しかった。寛大で誠実だった」 そうエドゥアールは後年語っている。「モーリスは自分のやり方を通そうとしたけれど、同時に、他の者もそれが一番だと考えることを望んでいました。そうでないと兄の喜びは損なわれた。図抜けた繊細さと思いやりのある身勝手さとでも言いましょうか」 モーリスもエドゥアールを深く愛し、二人の住む小さなアパートの部屋は、笑いと活気に溢れていた。隣りの人たちがときに抗議するほどの活発さだった。

子ども時代、弟と

 「小さな悪魔たち!」 そう母親のマリーは声を上げたけれど、とがめる気持ちは半分で、愛情と息子たちを自慢に思う気持ちでいっぱいだった。
 「子どもに甘すぎるよ」とマリーは友だちに言われた。
 マリーはそれに対して「子どもたちに尊敬されるより、愛される方がいいわ」と返していた。

 マリーは子どもたちの母親というより、友だちに近かった。息子たちのほうも母親を愛するだけでなく、崇拝していた。子どもたちの父親も同様で、素晴らしいおもちゃを自らつくり、びっくりするような機械類を家に持ち帰ったりした。モーリスはそれがどのように動くのか知りたくて、バラバラにしたがった。機械に対して大きな興味をもっていた。「もし音楽家になっていなかったら、機械関係に進んでいたね」 技術者にならなかったら、音楽家になっていただろうという父親から生まれた息子だ、とモーリスはよく言われた。

 小さなアパートには、ピアノが1台あった。ジョゼフのいちばん大事なもちものだった。音楽なしの1日を終えると、若き日を音楽に捧げてきた父ラヴェルは、ピアノを弾く楽しみを取り戻した。父親がピアノのところに行くと、小さなモーリスは遊びをやめて、そばに行って演奏を聴いた。父のジョゼフが息子をひざに乗せて、鍵盤を触らせることもあった。息子が音楽の才能に恵まれていると感じて、ジョゼフはとても喜んだ。

 モーリスが7歳になったとき、父ジョゼフは息子に良い先生をつけた方がいいと考えた。ジョゼフはパリに音楽家の友人がたくさんいて、彼らはよくラヴェル一家のアパートを訪れて演奏をした。その友人たちの中にジョゼフが尊敬するアンリ・ギスがいた。誰もが知る「アマリリス」の作曲家だ。ギスはモーリスはまだ小さいと思ったが、喜んで引き受けることにした。レッスンの日の晩、ギスは日記にこう書いている。

1882年5月31日。今日、まだ小さなモーリス・ラヴェルのレッスンをはじめた。この子はとても賢い。

 モーリスがピアノを弾けるようになり、楽譜を見て父親と連弾できるようになった日は、ラヴェル一家にとって記念すべき日となった。それ以降、父と子がピアノに向かわない日は、一日たりとも見られなかった。ジョゼフは仕事から帰ると、息子をピアノに誘った。「連弾用のワーグナーの小曲はどうだい?」 父ラヴェルは『タンホイザー』の序曲がお気に入りで、二人はいつもいつも演奏したので、モーリスはしまいに飽きてしまった(これは後のラヴェルのワーグナー嫌いと関係しているかもしれない)。

 モーリスは才能に恵まれていたとはいえ、この頃には特別なものを見せていたわけではなく、そのまま数年の月日がたった。しかしながらこれはむしろ運がよかったと言える。「天才児」はめったに最初の予見を超えることがないからだ。将来、独自性のある人並み外れた音楽家になるために最良の道を選ぶこと、息子への信頼や激励は、父親としての責任感からくるものだった。モーリス・ラヴェル自身、これを認めている。

ごく小さな頃から、わたしは音楽に敏感でした。多くのアマチュア音楽家よりずっと高いレベルの音楽教育を受けていた父は、どのようにわたしの個性を伸ばしたらいいか、音楽への熱意をどうやって刺激したらいいかよくわかっていました。

 モーリスがリセに通うようになって、最初のハーモニーの教師となったのはシャルル・ルネだった。この新たな授業はモーリスを夢中にさせた。調や和声の展開、楽曲の複雑な構成はおもちゃをバラしたり元に戻したりするのと同じように、心奪われることだわかった。毎晩、モーリスは次の日のクラスの準備をいそいそとやった。シャルル・ルネ先生はモーリスのために、毎日難しい課題を用意していた。

 この有能で賢い教師は自分の生徒たちに規定の課題に加えて、古典音楽のテーマをつかって変奏曲を書くよう要求した。さらに自分で作曲することも勧めた。モーリスはこの課題をなによりも楽しんだ。そしてシューマンのコラールの変奏曲を教師に見せたときには、将来の兆しをもう見せていた。その後にはソナタの1楽章をつくり、シャルル・ルネにこの少年の将来を確信させた。

 何年かのちにシャルル・ルネはこう書いている。「突出した努力を見せており、非常に洗練された、高貴で磨き抜かれた音楽性というものをすでに目指していた。のちに見られる深い没頭がもうあった。芸術的な進化における真の統合が見えた。モーリスの音楽の着想は生まれもったもので、他の者たちのように、努力の結果ではない」

 今日と同様、19世紀後半、フランスにおける音楽の最高の教育機関は、パリ国立高等音楽院であった。1889年、ラヴェルが14歳のとき、アンリ・ギスとシャルル・ルネ両者ともに、必要とされる入学要件を満たす準備が充分にできていると感じた。その結果、モーリスはオーディションのための指導を受け、無事試験に合格した。

本文注釈より
*ジョゼフの自動車の発明について:1868年、ジョゼフは製造したガソリン自動車をレポルト通りで走らせる許可を得る。ジョゼフはサン・ドニまでの1kmの走行に成功し、戻ってきた。このガソリン車の走り(時速6kmくらい)に、徒歩で護衛していた警察官二人は追いつけず、それをなだめるために、ジョゼフはグログ酒をおごるからと言って違反通告を免れた。(作曲家、モーリス・ドラージュによる話)

'Childhood on the Basque Coast' from "Bolero: The Life of Maurice Ravel" by Madelene Goss
日本語訳:だいこくかずえ(葉っぱの坑夫)


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