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XI. マ・メール・ロワ

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著者マデリーン・ゴス(1892 - 1960)はラヴェルの死後まもなく、英語による最初の評伝を書いたアメリカの作家です。ゴスは当時パリに滞在しており、ラヴェルの弟エドゥアールやリカルド・ビニェスなど子ども時代からの友人や身近な人々に直接会って話を聞いています。『モーリス・ラヴェルの生涯』は"Bolero: The Life of Maurice Ravel"(1940年出版)の日本語訳です。

・ラヴェルとゴデブスキー家の子どもたち
・『マ・メール・ロワ』
・独立音楽協会(la Société musicale indépendante)
・批判されたコンサート
・『夜のガスパール』
・他の作曲家たちについてのラヴェルの意見

 「むかしむかしのこと、、、」
 ラヴェルはアテネ通りにあるゴデブスキー家のサロンで、小さなミミーをひざに乗せ、足元の腰掛けにジャンを座らせていた。目の前では暖炉の火が赤々と燃えていた。
 ラヴェルには、子どもっぽくてとてもうぶなところがあった。子どもが大好きで、幼い人たちと一緒にいるとなによりも寛げた。子どもたちのために遊びを発明し、時間を忘れてお話をきかせた。大人になってもごっこ遊びの世界を捨てたことはなく、王女様や妖精の園のお話は、子どもたちにとってそうであるように、ラヴェルにとっても現実のものだった。

 ゴデブスキー家のジャンとミミーは、赤ちゃんのときからラヴェルを知っていて、とても親しい仲だった。ちょっとでも時間を見つければ、ラヴェルはこの子たちと遊ぶために家を訪ねた。使用人たちがもう仕事を終え、部屋に引きこもった夜遅い時間のこともあった。
 「これは失礼」 ラヴェルは思わず声をあげる。「こんな遅い時間になっていたとは!」
 「でも、夕食はめしあがったの? ムッシュー・モーリス」とゴデブスキー夫人。
 ラヴェルにとって、時間はたいして重要ではなく、他の人たちにとって何故そこまで価値があるのか理解していなかったので、こう答えた。「何かそのへんにあるものをちょっといただければ……」
 
 ゴデブスキー夫人が調理済みの肉とフランスパンを一切れ探しにキッチンに行っている間、ミミーとジャンは大好きな友だちを独占できた。ラヴェルはたいていちょっとしたオモチャとかゲームを持参した。新年に大通りに行商人たちが集まってきて、機械仕掛けのまがい物を売っていると、ラヴェルは夢中になってあれやこれやと手にとって試し、幼い友人たちのために買い漁った。あるとき、ラヴェルは小さな船を見つけて大喜びした。船には小さな日本人が並んでいて、舌を出していた。ゴデブスキー夫人にはミニチュアの日本庭園と松の盆栽を贈った。

 ラヴェルはいつでも子どもたちを楽しませる新しい手品を用意していた。子どもたちのために紙を切って人形をこしらえることもあった。とても手先が器用だったのだ。ラヴェルが四つ足をついて、部屋じゅう子どもたちを追いかけまわせば、ミミーは最後には興奮して大声をあげた。子どもたちは、ラヴェルの人の良さにつけこんで意地悪することもあった。するとラヴェルは枕を投げて仕返しをしようとする。最後には戦いは暖炉の前の大きなアームチェアで終わりを迎え、お話のリクエストに応えることになる。ミミーはラヴェルの腕の中でうとうとし、ジャンの方は目を輝かせて、よく知られている『美女と野獣』や『親指トム』『レドロネット』の話に耳を傾けた。
 「むかしむかし、あるところに、、、」

 ゴデブスキー夫妻は子どもたちに小さな頃から音楽教育をはじめた。ジャンはそれなりの才能を見せていたが、ミミーは練習をいやがった。この二人の子を励まそうと、あごひげを生やした友だち(ラヴェルは当時、あごひげを蓄えていた)は、ジャンとミミーが弾けるよう、四手連弾の曲を作曲することにした。お話の中から二人の好きな五つの物語、「眠れる森の美女」「親指小僧」「レドロネット」「美女と野獣」「妖精の園」を取り上げて、『マ・メール・ロワ』と題した楽しい組曲を書いた。

 生まれながらの子どもっぽさと詩的な想像性のため、ラヴェルはよく知られたお話を音楽にぴったりと当てはめた。シンプルながら見事な仕上がりの作品、ここまで子ども心に迫る曲を、ラヴェルはこれまでに書いたことがなかった。このような優しさに満ちた楽曲は、ラヴェルの他の作品ではあまり見ることができない。『マ・メール・ロワ』において、ラヴェルは公の前で身構えることを忘れてしまい、心をすっかり開いているように見える。ラヴェルの通常の「人工的な」様式は、素晴らしき単純さと真新しいインスピレーションに取って代わられている。

 このおとぎの国の組曲、第1曲は「眠れる森の美女のパヴァーヌ」で、2声の対位法によって作られている。ゆっくりとした、優雅で不思議な魔力に満ちた短い舞曲で(たった20小節の長さ)、初期の『亡き王女のためのパヴァーヌ』とは様式においてまったく異なるものだ。 ↓ 第1曲

 次の曲は「親指小僧」。シャルル・ペローによる物語で、貧しい木こりの子どもたちが森に捨てられる話。ラベルのスコアには次のような引用がある。

Paris: Durand & Fils, 1910. Plate D. & F. 7746.

親指小僧は、来るときに撒いたパンくずをたどっていけば、道は見つけられると信じていた。ところがひとかけらのパンくずも見つからず、がっかりした。鳥がやって来て、すべて食べてしまったのだ。

ラヴェルのスコア『マ・メール・ロワ』より

 音楽は親指小僧の落胆と、腹を減らした鳥たちの鳴き声を表現する。  ↓ 第2曲

 「レドロネット」(パゴダの女王レドロネット)は、ミニチュアの中国人形のシーンで、クリスタルのベルがチリンチリンときらめくように鳴って、パゴダの女王の話の背景を魅力的に飾る。二つのメロディーが(最初に明るいものが、次にゆっくりしたものが)現れ、交互に歌い、そのあと一つになる。
 これは17世紀にドーノワ伯爵夫人マリー・カトリーヌによって書かれた『緑の蛇』から取られた。この話では、美しい王女は悪い妖精に呪われて、醜い姿に変えられてしまう。王女は「醜い者(レドロネット)」と呼ばれ、それを悲しんで遠い城に身を隠す。そこで王女は緑の蛇と出会い、小さな船で海に連れ出される。二人はパゴダ(クリスタルや陶器、高価な石で作られた小さな生きものたち)の島に打ち上げられる。ラヴェルの音楽は次のように場面を描写する。

王女は服を脱いで風呂に入る。するとすぐにパゴタたちが歌い、楽器を演奏しはじめた。パゴダたちのからだに合わせて作られた、クルミの殻のテオルボ(古い時代の低音のリュート)、アーモンドの殻のビオラを弾く者もいた。

ラヴェルのスコア『マ・メール・ロワ』より

 レドロネットはパゴダの女王となって美しさを取り戻し、ハンサムな王子に変わった緑の蛇と結婚する。そしてずっと二人は幸せに暮らす。 
↓ 第3曲

 「美女と野獣の対話」(ボーモン夫人の物語より)には野獣となった不幸せな王子と、野獣に少し怯えている心優しい王女の間で、リアルな会話が交わされる。ラヴェルは次のような二つの会話を引用している。

Paris: Durand & Fils, 1910. Plate D. & F. 7746.

「あなたは優しい心の持ち主だと思うと、わたしにはあなたが醜くは見えなくなります」
「ええ、わたしは優しい心を持っています。でもわたしは野獣です」
「あなたよりもっと恐ろしい男はたくさんいます」
「わたしに知恵があったなら、感謝の気持ちをうまく表すでしょうが、わたしはただの野獣です」
                *
「美しい人よ、わたしの妻になってくれますか?」
「いいえ、野獣さん」
「あなたに再び会えた喜びで、満足して死にます」
「いいえ、いとしい野獣さん、あなたは死んではだめ、わたしの夫になって生きるのです」
野獣が姿を消すと、美女の足元に美しい王子が現れ、魔法を解いてくれたことに感謝します。

ラヴェルのスコア『マ・メール・ロワ』より

 この作品のオーケストレーションでは、野獣の低い声はバスーンによって効果的に表され、最後は王女が野獣の呪いを解き、変身した喜びによって話は締め括られる。この作品の一部には、エリック・サティの『ジムノペディ』第1番を思い起こさせるものがある。 ↓ 第4曲

 組曲の最後は「ゆっくりと荘重に」と指示があり、魔法に包まれた庭を繊細な水彩画で描いたような曲である。この『妖精の庭』は、美女を讃える勝利の歌へと昇りつめる。ここでラヴェルは、もう一つの世界(現実世界以上の意味をもつ場所)へのインスピレーションを目一杯膨らませる。ラヴェルはある意味で、いつも現実というものから逃げようとしている。人生に参加するというより、人生を「見る」という態度だった。そして自分だけの世界をつくることを好んだ。激しい感情の爆発が起きることのない、妖精や機械人形が住む非自然の場所。このようなものがラヴェルを大いに刺激し、演出への道をつける。ラヴェルにとって、これを音楽に当てはめることで心が休まる。そこでは誰も感傷的だと非難することはない。完璧な孤立と非人格性で自分の課題に挑戦できた。 ↓ 第5曲

 ラヴェルの音楽は魂がなく冷たいように見える、という人がときにいた。そして喜びはあっても深いものではなく、悪意を含んでいることがあると言う(ラヴェルのことを「笑いのない王子」と呼ぶ者もいた)。また表面的であると非難されることもあった。これが当たっているとしても、あまりに感情が激しいせいで、それを人に見せたくないという理由からくる「表面的」であると筆者は思う。とは言え、このような感情はときに冷淡さの仮面(これによって本心を隠す)を突き抜けることがある。それが作品の深さを生み、抑制された感情として現れ、ラヴェルの音楽を魅力あるものにし、また同時に人々を楽しませるものにしている。

 ゴデブスキー家のミミーとジャンは、ラヴェルが贈った曲の素晴らしさを味わうには、まだ小さすぎたようだ。ラヴェルはこの子たちが『マ・メール・ロワ』を、聴衆の前で演奏することを望んでいた。しかしミミーはその考えに戸惑い、頑固に練習を拒んだ。そして最終的に、このアイディアはなしになった。

 オリジナルの『マ・メール・ロワ』(四手連弾)は、マルグリット・ロンの生徒(6歳のクリスティン・ヴェルジーと10歳のジェルメン・デュラミー)によって、1910年、独立音楽協会のオープニングコンサートで初演された。この協会はその年の春、古典的な作品ばかりを好む古い一派(国民音楽協会とパリ・スコラ・カントルム)に対抗して、若い音楽家たちによって設立されたものだった。

 ここに組織というものが、自らの活動を限定し、制限する方向に働くという良い実例がある。あるアイディアがひとたび鋳型にはめられると、それを駆り立てていた抵抗しがたい情熱は、次第に失われていく。そしてその鋳型はさらなる成長を阻むだけでなく、インスピレーションを破壊するに及ぶ。国民音楽協会も元々は、独立音楽協会の若手たちとまったく同じ信条によって創設されたものだった。同時代の作曲家の作品を発表するための場となる、といった。しかし古い方の協会は、初期の目的であった寛容さや偏見のなさを徐々に失っていった。そして非常に保守的になり、若い作曲家の音楽にとってはメリットがなくなってしまった。多くの若手音楽家は「革命的」と見られ、国民音楽協会で演奏するに足る、「芸術的な野心」に欠けているとされた。というわけで若い音楽家たちは、自分たちにふさわしい場をつくろうと決意した。主として自分たちの世代の音楽を提供する、もっと寛容な組織だ。ガブリエル・フォーレが最初の協会長に選ばれた。ラヴェルも創設メンバーの一人だった。

 ラヴェルと何人かの音楽家は、音楽における自分の個性を真摯に表現することだけを大事にしていた。若手作曲家の多くはなんとしても独自性を表そうとし、ありふれたものやわかりやすいものを避ける中で、あらゆる伝統を反故にした。マンネリズムや退屈さへの恐れといったものが、新しい作曲家たちを終わりのない革新性へと押しやった。

 ドビュッシーに続くこの時期の音楽は、時代の不安を表す不協和音の世界へと大きく傾いた。クラシック音楽の従来の和声的解決は、若い作曲家にとって、固定的であると受け止められた。その先への発展が見込まれない、と。それに対して、不協和音の不安定な響きは、成長を促し、未知なるものへの発展を予感させた。認められた考え方や様式が存在したが、彼らはそれを信用しなかった。しかし彼らのさらなる大胆な探索の結果、通常の人間性の感覚が失われたり、小手先の技術でインスピレーションが犠牲にされることもあった。

 独立音楽協会は、長期間に渡り、世の評判を維持することができなかった。伝統による不必要な縛りから音楽を解放するという目標に価値はあったものの、良い結果を生むことにはならなかった。平均的な音楽愛好家は、若い作曲家たちがやろうとしていることを理解できず、評価することもできなかった。コンサートでは誠実で価値ある質の高い作品が組まれたが、全体として見たとき、保守派の人々の批評がまったく不当だとは言えなかった。

 アメリカの著名な作曲家で著作家のダニエル・グレゴリー・メイソン(Daniel Gregory Mason:1873 - 1953)は、『わたしの時代の音楽(Music in My Time)』の中で、この時期のパリの音楽界の印象を次のように述べている。

この時期のパリジャンの音楽において腹立たしいのは、その人工的なところであり、派閥意識の強さであり、自己満足的なところ、了見の狭さ、自己宣伝に熱中して、もっと大きな美しさに対して無関心であることだ。もちろん誠実な音楽家も存在する。ヴァンサン・ダンディ、ポール・デュカス、ガブリエル・フォーレ、フローラン・シュミット、そしてその中にはドビュッシーとラヴェルも入る。しかし騒音を生み出し、美に対する無関心さで、流行という魔法をかけた人々は成り上がり者であり、気取り屋であり、通ぶった人々であり、ハッタリ屋なのだ。「我々が流行をつくり、我々はそれを模範とする」 それに対してダンディはこう言う。「独創性は少しでいい」と。

もし、この成り上がり者たちを(悪感情抜きに)無視することができたなら、彼らとあちこちで出くわすことに、それほど意気消沈することもなかっただろう。しかしもちろん、自らを彼らの前に晒すことによってしか、思い上がりの入り混じった彼らの価値がどれほどのものか、評することはできない。それで独立音楽協会の荒涼としたコンサートに行くことになる。

"Music in My Time"より

 独立音楽協会設立の翌年、ラヴェルはエリック・サティの作品によるコンサートを協会の援助の元で開いた。このコンサートでは、ラヴェル自身がサティの『サラバンド』『ジムノペディ3番』『星たちの息子』前奏曲、(リカルド・ビニェスと連弾で)『梨の形をした3つの小品』を演奏した。

 『マ・メール・ロワ』の子どものファンタジーから、アロイジウス・ベルトランの奇妙に物悲しい詩へと興味を移したラヴェルは、ピアノのための組曲『夜のガスパール』を書いた。「オンディーヌ」「絞首台」「スカルボ」の3曲から成る。

「ラヴェルの音楽の美徳の総括であり、その天才ぶりを表すもので…‥夜の世界の魔法を深く描いている」(ロラン=マニュエル/Roland-Manuel:1891 - 1966、ラヴェルと親しい作曲家、音楽評論家)

Roland-Manuel, A la gloire de Ravel

 童話や民話と同様、詩の中にラヴェルは音楽性を感じる部分を見つけ、それに心を奪われた。ラヴェルのスタイルは非常に描写的で、まるで現実であるかのような効果を生み出すことができた。そんな例は他にあまりないのだが。この3曲にはそれぞれ新しく、あまりない書法がいくつか見られた。「オンディーヌ」では、水の表現に新しさを見せた。アルペジオのシャワーの中に雫が落ち、『水の戯れ』の輝きを思い出させる。とはいえ、ここではラヴェルは全く違う様式を使っているのだが。

 「絞首台」は、悲しみの風景の中の絞首刑をイメージさせる。遠くで鐘の重い響きが執拗に鳴っている。

Paris: Durand & Fils, 1909. Plate D. & F. 7207.

 それは地平線の向こう、街の外壁のところで鳴る鐘の音、そして吊り下げられた男の死体が夕陽に赤く染まる。

『夜のガスパール』スコアの「絞首台」より

 飾り気のない簡潔な音楽が、悲劇的な情景を強調する。抑制された感情表現が、よりドラマチックな演出よりも、はるかに効果を発揮している。

 「スカルボ」は鬼火で、「魔女の糸巻き棒から落ちる紡錘」のように奇妙に転がり、最後には「ロウソクの火のように」吹き消される。名人芸的なピアノの技巧による、火花を放つ旋風のような曲で、地獄のお祭り騒ぎのスケルツォの中をスカルボが通り抜ける。そして眩いばかりの結末へと組曲を導く。「スカルボ」はアメリカのピアニスト、ルドルフ・ガンツに献呈された。一方「オンディーヌ」はハロルド・バウアーに贈られている。

 『夜のガスパール』はラヴェルのピアノ作品の頂点に到達している。アルフレッド・コルトーはこの作品についてこう書いている。

 三つの音楽詩は、これまでに生み出された器楽曲の中で最高の価値を示し、我々の時代のピアノ曲のレパートリーを豊かなものにしている。

Alfred Cortot, quoted by Roland-Manuel, A la gloire de Ravel

 アンリ・ジル=マルシェックスは、ラヴェルのピアノ音楽に関する議論を述べた記事の中で、ラヴェルの楽譜は複雑で入り組んで入るが、追うことが難しいわけではないと述べている。

 ラヴェルの書法は常に見事なほどに明快で、一つ一つの指示記号が厳密で非常に重要な意味をもつ。書かられた指示が、ここまで慎重に求められる楽譜というものをわたしは他に知らない。魔法じみた処方がすべて準備されていて、重箱の隅をつつくといっていいほどの精密さがある。楽譜を読むにあたって、非常な慎重さが求められ、ピアノ演奏における解釈に間違いが犯されることはあり得ない。一方で、詩的な解釈は非常にとらえがたく、ラヴェルの思想を汲むために必要な想像力は、平凡な演奏家の能力をはるかに超えている。心をもって演奏される必要があるが、明快な知性も同時に求められる。

“La technique de piano,” in Revue Musicale , April 1925

 (澄んだ視界、硬い歯、鋭いペンをもつ)ラヴェルは、様々な新聞や雑誌に記事を書いてきた。またそこには、同時代の仲間の作曲家についての見解がたくさんあった。リストについては「音楽素材において壮大で華麗なカオスがあり、数世代にわたる名だたる作曲家たちがそこからインスピレーションを引き出した」と述べている。また「幸運なことにワーグナーにはリストがいた」と書いた。ラヴェルにとって、この二人を比べたとき、リストはより偉大な音楽家だった。ワーグナーの音楽のことをラヴェルは「異教徒の氾濫する唸り声」と呼び、「平和や平穏さ、もっと言えば隔離さえ必要になる」と。

 ベートーヴェン(偉大なる聴覚障害者)でラヴェルが惹かれたのは、主として四重奏曲だった。ブラームスについては「素晴らしいオーケストレーションの技術があるが、あまりに作為的だ」「彼の音楽は飛翔することがない」と。(フランス人はあまりブラームスの音楽を理解しない、あるいは無視する。そしてドイツ人はフォーレを評価しない。興味深いことだ)

 近代のドイツ人作曲家の中で、ラヴェルはリヒャルト・シュトラウスが最も優れていると見なしていた。そして彼のオーケストレーションは魔法であると。(シュトラウスの『エレクトラ』を聴いて、ラヴェルは「内臓がむしり取られたかのようだった」と述べている。しかしこの作品の熟成度を認めながらも、その残忍さ、強引さは嫌っていた)

 セザール・フランクの音楽については、「唯一の豊穣なるハーモニーを求めた高貴さ(楽園の門が開かれた)」としつつも、「嘆かわしいほどの繰り返しと様式の貧しさ」に満ちているようにラヴェルは感じていた。

 バッハはクープランほどには惹かれることがなかったが、モーツァルトはすべての作曲家の中で、最もお気に入りだった。「彼は神だね」そう言った。「モーツァルトは人間じゃない、彼は神だ」

 ラヴェルの個性や性格は、その音楽以上に一般の人や批評家の心を捉えた。多くの人がラヴェルの風変わりな気性や作品へと向う動機を理解しようとはしたが、成功した者はあまりいない。エミール・ヴュイエルモーズ(Emile Vuillermoz:1878–1960、作曲家、音楽評論家) による、興味深いラヴェルの描写がある。

批評家も写真家も正確ではない、本当の姿とは違う、不正確で正反対の肖像を描いてきた。独特の目立つ鼻、しっかり結ばれた薄い唇、陽気にして無慈悲な目、木彫り師が魂を込めて刻み込んだような顔のしわ、彫刻家の手で大胆に型作られた横から見た頭部、引退した船乗りのような、わずかに日焼けした肌をもつほっそりした機械っぽい、まったく無駄のないからだの線、こういった要素のすべてが、判定し難い全体像を作り上げている。

ラヴェルの中にはバラバラの違う要素があって、それは一つにまとまることがない。子どもにして、年老いた男。何も彼を楽しませることがないが、その荒廃した顔に、いくらか表情を見せることがある。彼は無頓着な子供っぽさから重々しく苦痛に満ちた大人へ、するりと変移する。しばしばラヴェルは何かに耐えているように見えることがある。彼の苦しみの表情や眉をひそめる姿に、内部でどんな対立が暗く渦巻いているのか、人は知る由もない……

生きることに恐れをもたない芸術家の中に、不安を抱える若いキツネ、あるいはそこら中にある罠を嗅ぎ分けようとするネズミの姿が、明快に、生まれながらのように、くっきりと見えることは驚くべきことだ。自分の創造性が絶対的であることを知らないのは、ラヴェル自身だけ、ということなのか。時計の針のように正確にメカニズムを調整するとき、ラヴェルは辛抱強く綿密にやったが、そこで意に反することは起きなかった。ラヴェルは機械仕掛けのおもちゃを作って非難される。しかしそれは素晴らしいおもちゃで、わたしたちの想像力や感受性を強力に刺激する、もう子どもではない(大人の)子どもたちにとっての、極上のおもちゃなのだ。

"Les Cahiers d’aujourd’hui" No. 10 - 1922 - Pleasant Portraits特集号


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