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インタビューという文学形式があったとしたら

音楽家またはミュージシャンへのインタビューというと、まず思いつくのがプロモーションの一環としてのインタビュー記事でしょうか。新しいアルバムを出すタイミングとか、コンサートツアーの始まる前であるとか。

ネットの記事にはその手のものはたくさんあると思います。新作やコンサートがどんなものか、その内容を知るにはある程度役に立つものです、が、内容といっても、通り一遍のものでなく、もう少し深い内容、たとえば音楽家自身の考え(ネガティブなことも含め)、いつどのようにしてあるプロジェクトが成立したか、さらにそこで話された一つの話題が別の話題に自然発生的に発展する、といったことにアクセスできるのは案外少ないように思います。

ミュージシャンにとって、アルバムやツアーが記事になることは、人に知られるという意味で一定の利益があります。ただプロモーションの一環という制約の中では、面白いインタビューになることは稀な気がします。

ではプロモーションではないインタビューというのはあり得るのか。音楽家が演奏や楽曲を通してではなく、言葉によって聴衆と結びつく機会になるようなものは。(必要ない、と言う人もいるかもしれませんが)

最近、ホ・ヤンジンさんというロンドン在住の研究者・大学講師の方の、音楽家へのインタビュー記事を読みました。ホ・ヤンジンさんの専門はファッションにおける応用心理学で、ロンドン芸術大学のカレッジに所属しています。専門とは別に、クラシック音楽愛好家&レコードコレクターで、それが高じて音楽家へのインタビュー活動を始めたようです。非常にパーソナルな方法で、個人のブログでそれを発表しています。

ただ、個人的な活動とはいえ、インタビューイーとして名を連ねる音楽家には、若手からベテランまで名の知れた世界の演奏家が揃っています。ホ・ヤンジンさんは、テキストととして書き起こす(放送やポッドキャストではなく)ことを前提に、このインタビューをしています。つまり原稿が、彼の著作物になる可能性を含んでいます。これについては後で書きます。

わたしが最初に読んだのは、ピアニストのチョ・ソンジンさんの3年越し7回にわたるロングインタビューで、最初から終わりまで非常に興味深い内容でした。チョ・ソンジンさんの音楽家としてのあり方、生き方、どのようにしてプロジェクトを組み実行してきたか、指揮者や他の演奏家とどのように出会い仕事を進めているか、あるいはレコーディングのプロセスの詳細など記事になることの少ない音楽家の実情や内面まで、幅広く知ることができました。さらには、話の中に登場した、彼が聴いてきた音楽にまで興味が湧き聴いてみる、といったおまけまで付きました(自分の音楽の聴き方の狭さに気づかされもしたのですが)。とてもアクティブな刺激の多い会話(インタビュー)でした。

これは音楽家への「インタビュー」なのですが、ホ・ヤンジンさんはこれを「conversation(会話)」と呼んでいました。聞き手と答える人に分かれているので、形式としてはインタビューなのですが、用意された質問を一方的にするというより、互いの話のやりとりの中から、自然に次の話題が生まれてくるようなスタイルをとっていました。聞き手は、相手の答えを知らずに質問しているのですから、これは自然な流れと言えます。音楽でいうなら、即興演奏のような。
*プロモーション用のインタビューでは、答えを知った上で聞いている場合も多いので(情報の伝達が目的なので)、シナリオを読んでいるのに近い感じでしょうか。アクティブなところが当然、減ります。(チョ・ソンジンさんは、インタビューというものを楽しめるかと聞かれて、予測通りの質問に繰り返し答えることが多いので退屈である、自分の考えを話したり、自分を明白に表す機会があまりない、多くのインタビュアーは個人的なことや微妙な問題を避けているように見える、と語っていました。)

ホ・ヤンジンさんのインタビューに出会ったのは何がきっかけだったか。多分チョ・ソンジンさんの演奏について、最近、改めて気づいたことがあって、ネットを調べていたときに偶然、見つけたのだと思います。このインタビューは2019年のロンドンにはじまり、2020年のベルリン(4回シリーズ)、さらに2021年5月のオンライン(2回シリーズ)の構成になっています。

わたしが最初に出会ったのは2020年ベルリンの第3回でした。そこから読み始めました(この段階では、原文が英語なので、二人は英語で会話していると思っていた。が、2019年の最初のインタビューによると韓国語での会話だったようです。それを英訳し、最終テキストとしてまとめている)。

第3回のページトップには「クライバーが指揮するようにピアノの演奏をしたい」というインタビューからの引用文がありました。クライバー? わたしは交響曲を聴くことが少ないので、何を指しているのかピンときませんでした。が、「指揮をするように」という部分はわかりました。

誤解を招く表現かもしれませんが、わたしのチョ・ソンジンさんのピアノ演奏の印象は、「非人格的」というものです。演奏という音による成果物(構築物)の中に、特定のピアニストの人格を見ないといった意味です。そこにあるのは、モーツァルトでありベルクでありシューベルトであって、それはチョ・ソンジン風の解釈やニュアンスを期待してのことではない、といった。

インタビューの中で、チョ・ソンジンさんは、「ほとんどのアイディアは、すでに楽譜に書かれている」と言っていました。それを注意深く汲み取ることが、つまりその場にいる(オーケストラや聴衆の)誰よりもスコアを理解していることが、演奏における自信につながるとも。ステージに出る前に、ピアノの前で練習するより、むしろスコアを見る方が自分にとっていいという発言もありました。

2015年のショパンコンクールのビデオで、初めてチョ・ソンジンさんの演奏を見て印象的だったのは、無理のない姿勢や鍵盤のタッチ、演奏法の全体でした。それが「個人の感情」や「表現の嗜好」を超えて、大きな世界観をつくっているように見えました。そこにこのピアニストの個性を見ました。

このことはある意味、演奏がオーケストラ的であると言えないでしょうか? ページ最初の引用文「指揮をするように」をわたしはこのように理解しました。インタビューの中で、チョ・ソンジンさんは、オーケストラの指揮と楽器の演奏の違いについて次のようなことを言っていました。

目隠しテストで、オーケストラの指揮を誰がしているかは(ゲルギエフなのか、ハイティンクなのか、ムラヴィンスキーなのかといった)、かなりの聴き手でないと区別は難しい。しかし楽器の演奏の場合、誰がベートーヴェンのソナタを弾いているか当てるのは、それほど難しくない、と。

チョ・ソンジンさんの演奏について、オーケストラ的であるなどと言っているのを聞いたことがないので、間違っているかもしれませんが、わたしはインタビューを読んで、ここまでに聴いてきた彼の演奏(の「非人格性」)をそのように理解しました。インタビューによって、演奏の理解が深まったと感じた瞬間です。

ホ・ヤンジンさんのインタビューで印象に残った部分をいくつかあげてみます。チョ・ソンジンさんは2011年、まだ17歳だったときにパリに留学しています。そこから2、3年の間、非常に孤独な日々を過ごしたようで、それは自ら人に会おうとしなかったことも原因だったようです。友だちも知り合いもなく、閉じこもり一人で過ごした日々。しかしその体験が、当時練習していたラヴェルの『高雅で感傷的なワルツ』の理解に役立ったというのです。

この作品は直接的な意味で悲しい曲というわけではありません。これはドビュッシーの音楽にも言えると思うのですが、この二人の音楽には「孤独感」があります。わたしはそれを強く感じるようになりました。パリで憂鬱に襲われたとき、この二人の作品を弾くと慰められ、気持ちが落ち着きました。

INTERVIEW | Seong-Jin Cho (Series Part 2) | from the article by Young-Jin Hur(筆者訳)

ん? わたしは『高雅で感傷的なワルツ』を聴いてみることにしました。この曲は何人かの演奏で聴いたことがありましたが、今回、これを読んでから聴いてみると、不思議なのですが、非常に近しい音楽に、馴染み深い曲に聞こえてきました。たまたまAmazon Musicで出てきたルビンシュタインのものでしたが、「孤独」というキーワードによって、新たなアプローチの扉が開かれた気がしました。

また別のエピソードとして:韓国で芸術専門の中学に入学した後、マーラーの交響曲と出会い、大きな感銘を受けたこと、マーラーのすべての交響曲を聴きはじめたこと、それを聴いていると、当時練習していたピアノソナタがどれも取るに足りないものに思えたこと。このエピソードは、アイスランドのピアニスト、ヴィキングル・オラフソンの子ども時代の話を思い起こさせます。12、13歳の頃、ベートーヴェンの交響曲1番を初めて聴いてとりこになり、新聞配達をしてお金を貯め、全交響曲のボックスセットを買ったという話。

オーケストラ曲に親しみのないわたしですが、インタビューを読んだあと、マーラーの第1番を生まれて初めて聴いてみました(チョ・ソンジンさんが聴いていたというバーンスタイン指揮のグラモフォン版)。なるほど、交響曲も悪くない、ということと、時代的にマーラーはドビュッシーやラヴェルと重なる部分がありますが、作品はかなりロマン派的だと感じました。

もう一つ、面白いなと思ったのは、パンデミックの間、コンサートがキャンセルされて家にいる時間が多かったことから、チョ・ソンジンさんはネットで配信されているピアノの国際コンクールを見てみたそうですが、誰が次のステージ進めるかの予測は見事に外れっぱなしだったとか。自分は耳がよくないのかも?と疑った、などと冗談を言っていました。これを聞いて思ったことがあります。チョ・ソンジンさんは演奏する曲を選ぶ際、条件として、自分の演奏によって何か新しいものが付け加えられる可能性をあげていました。コンクールでの予測が外れっぱなしだったことと、これは関係があるかもしれないと。つまりコンテスタントがどれだけ技術的に高いか、上手く弾いたか、ということより、何百回と弾かれてきた作品に対して、どんな新しい側面を奏者が見つけているか、そこにチョ・ソンジンさんは注目していたのではないかな、と。コンクールでは、そういった演奏をする人が良い成績をあげるとは限らないので。

いかがでしょう。チョ・ソンジンさんのインタビューの内容を詳しく書いたのは、ホ・ヤンジンさんとの会話がどのようなものだったか、ということを伝えたかったからです。こんな風に話される「人と人の間の言葉」は、話題が次の話題を誘い、ちょっとした表現や場所の名前、人の名前が、話し手、聞き手それぞれの連想をうながし、想像が想像を押し広げていくような効果を生みます。

文学のはじまりである、語り(物語、伝説、神話、なぞなぞ等)も、話し手と聞き手との交感の中で発展してきたと思われます。一方的に片方が話すのではなく、聞き手もその話づくりに参加していたはずです。そう考えると、インタビューも、ある種の文学的な要素があるように思います。素晴らしい創造物(共同創作物)になる可能性を秘めています。インタビューは話し手、聞き手をアクティブにするだけでなく、それを読む人(聞く人)に対しても、(自分もそこに参加しているような)アクティブな働きかけがあります。

小説が作家の頭の中だけで生まれるものか、と言えば、そうであるとも限らないことを考えると、作品における相互作用性は重要なのかもしれません。その意味でインタビュー記事にも「文学と同等の創作性」の可能性を見ることができます。

ここで冒頭で触れた、インタビューが著作物となる可能性について書いてみます。
インタビューを書き起こしたテキストの著作権は、どこにあるのでしょう。ネットで少し調べてみたところ、以下のようなことがわかりました。
1)インタビューを一字一句、そのまま書き起こして記事にした場合は、インタビューされた人の著作物となる場合がある。
2)インタビューを記事にする際、インタビュアーが何らかの改変を加えた場合は、テキストを制作した人(インタビュアー)の著作物となる可能性がある。
3)インタビューの記事を制作する際、インタビューされた人もその作業に参加した場合(訂正や追加など)、記事制作者との共同著作権を得ることもある。
4)インタビューが、法人などの第三者の依頼による場合は、(特別な取り決めがないかぎり)その依頼者が著作権を得る。
と、だいたいこんなところでした。

ホ・ヤンジンさんのインタビューの場合は、おそらく彼の著作物になると思います。インタビューをテキストとしてまとめ、注釈を入れたり、ときに全文を翻訳することもある、という意味で、彼は著作者(何らかの個性を表現して著作物をつくった者)に該当します。インタビューされた人は、素材の提供者となり、著作者にならないというわけです。

話を戻すと、わたしが読んだのは、チョ・ソンジンさんのインタビューのみだったので、(同国人同志の母語によるものだったから)リラックスしつつも率直で刺激的な会話になったのかな、と思い、ホ・ヤンジンさんがインタビューした、別の演奏家の記事も覗いてみました。

多くの人が知っているだろうということで、ピアニスト・指揮者のアシュケナージさんのものをチョイスしてみました。引退の前年、2019年4月にロンドン行われたものでした。「ロンドンはいかがですか?」という質問から入り、少しして同席していた妻のトルンさんが話に加わると、グッと開放的なムードになり、楽しいエピソードがたくさん飛び出してきました。

トルンさんは最初「ちょっとお邪魔してもいいかしら?」と、二人の会話に入ってくると、アシュケナージさんの母親から聞いた話として、次のようなことを語りました。

トルン:子どもの頃、彼が最初に夢中になったのがオーケストラで。お母さんがバレエやコンサートに連れていくと、彼はいつもオーケストラばかり見ている。それで「次に来るときはオーケストラピットがよく見える席にしましょう」って言ったそうなの。
アシュケナージ:そのとおり!

In conversation with Vladimir Ashkenazy| from the article by Young-Jin Hur(筆者訳)

ボリショイ劇場に行っても、舞台の上で起きていることより、オーケストラの方が大事、見る価値があったんだ、とアシュケナージさんはつづけます。

またアシュケナージさんはソビエト時代の音楽家なので、西側諸国にコンサートで行くと、国では手に入らないレコードをトランク一杯買って帰ったそう。当時ソビエトは豊かではなかったので、西側に旅した人は服や日用品などを買い込んでくることが多かったのに、自分が欲しいものは音楽だけだった、と。買ってきたレコードは、帰国後、人に貸してもいたそうで、戻ってこないこともしばしばだったとか。そりゃ酷いことだよ、もちろん、と言いつつ、「でも……」と。

You cannot say no when someone asks for music.
音楽が聴きたいと言われたら、嫌だなんて答えられないよね。

In conversation with Vladimir Ashkenazy| from the article by Young-Jin Hur(筆者訳)

トルンさんがこのインタビューに参加したことで、いろいろな意味で話が豊かに、楽しく広がっていったように見えました。最初からの狙いだったかどうかはわかりませんが、ホ・ヤンジンさんはインタビューの冒頭で、トルンさんとアシュケナージさんとの出会いについて質問することで、会話の場に彼女を引き入れていました。

このような場のつくり方、オープンなマインド、そういったものがホ・ヤンジンさんのインタビューの根本にはあるのかもしれません。通り一遍の好奇心ではなく、心から聞きたいことを率直に尋ねること、インタビュアー自身がまず心を開いて話し手に向き合うこと、そういったいくつかの条件の中で、そこだけで話される特別なことが引き出されるのでしょう。

わたしには、インタビューの達人と言えるアメリカの友人がいます。クラシックの音楽家へのインタビューを長くしてきた人で、彼自身、音楽を職業としていたことがあり、またレコードコレクターでもあります。この人のインタビューの特徴は、音楽のことのみを訊くことで、話題はその範囲に限られています。そしてそのことが、インタビューを特別なものにしています。

ホ・ヤンジンさんのインタビューは、もう少し広がりがあって、音楽以外のことも時に尋ねています。でも、それも音楽と無関係というわけでもなく。音楽家のパーソナリティに触れることが、その人間の音楽を理解するのに役立つことがあるからです。

二人の素晴らしいインタビュアーを知ったことで、インタビューという、文学ではないかもしれないけれど、それに隣り合う、「文学と同じような作用を引き起こし、世界の真理に触れることができるテキスト表現」というものの存在に気づきました。


タイトル画像:マティアス・ゲルネ(バリトン)、チョ・ソンジン(ピアノ)によるドイツグラモフォン発売の『夕映えの中で~ドイツ歌曲集~ワーグナー、プフィッツナー、R.シュトラウス』(2019年)のジャケット
(ホ・ヤンジンさんのインタビューの中で、ゲルネとの出会いやアルバム制作について、チョ・ソンジンさんは詳しく語っています)
↓ こちらはそのレコーディング風景のPVトレイラー。二人のコメントあり。

同アルバム、レコーディング風景(R.シュトラウス「夕暮れをゆく夢」)。


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