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癒合:Fusion ハワード・メブ・マキシマス (カメルーン)

COMPILATION of AFRICAN SHORT STORIES
アフリカ短編小説集 
もくじ

ハワード・メブ(Howard Meh-Buh)は、カメルーンの作家。モーランド創作奨学金、アフリトンド短編小説賞、カラハリ短編小説賞を獲得。カタパルト、アフリカ・レポート、ポーター・ハウス・レビュー、Loiwe、バクワ・マガジン、Revista Periferiasなどに作品が掲載されている。バイオテクノロジーの理学修士をNSU(ノース・サウス大学:ダッカ)で、MFA(美術学修士号)をテキサス州立大学で取得。(作品の後に作家の言葉)


Howard Meh-Buh Maximus


今日、キミはきみになり、ボクはぼくになる。

 頭に浮かぶのは、わたしたちは奇異で、人騒がせで、読み書きがあまりできない人(わたしの父のように、そしてここに暮らすみんなのように)の目には、異種の存在であったときのことだ。わたしたちは複数であり、異常に接近していて、1人、2人とも数えられるし、1人の中に2人とも言えた。統計では、4万9000人に一人、10万9000人の出生に対して1件。わたしたちはチコのキャンプ(作業員宿舎)で生まれ、最初に吸った息は、ゴム製品の臭いがした。宣教師がわたしたちの地域に病院を開いた年、2003年のことだった。その年、女の子、その母親たちがこぞって妊娠した。まるで出産費用の免除が助成金であるみたいに。あるいは子孫繁栄のための奨学金が出たみたいに。

 わたしたちが生まれた日、父さんが卵を割ると、卵白の中に二つの黄身が泳いでいた。そのとき、母さんが破水した。左手を戸棚に伸ばし、右手で腹部をつかんだ。人々はどうしてそれを知っているのか、と訊く。わたしたちは物語 とはそういうものだと答える。わたしたちが生まれた日、近くに住む人たちが、贈りものを手に家を取り囲んだ。赤ん坊用のパウダーにオイル、タオル、おもちゃを持って。そしてわたしたちを目にすると、みんなは手にしていた贈りものを、母さんのベッドの足元にポトリと落とした。哀れみのため息をつき、驚きの表情を浮かべ、半ば呆然とし、首を振り振り部屋を出ていった。

 背の低い、まるまるとした医師が両親に尋ねた。わたしたちを連れ帰るか、と。まるでわたしたちが鶏肉で、両親はそれを持ち帰るかどうか迷っていて、シェフである医者は、客が腹を空かせていると言うのを待っているみたいに。あるいは元に戻せることであり、遺伝子情報の書き違え(a lapsus calami=筆の誤り)に対処できる、とでもいうように。
 父さんは唾を吐き捨てるように、考える必要などないとでもいうように答えた。俺はほしくない。母さんは構わずわたしたちを家に連れ帰り、父さんの方は、長いこと酒の臭いと不機嫌さを家に持ち帰り、新米の父親の不安な面持ちを見せていた。ある晩のこと、わたしたちの歯が生えはじめた頃、あまりに泣くので、父さんは大声をあげ、ウィスキーの瓶を母さんに投げつけ、そのまま家を出ていった。その後、父さんはよその女の子を妊娠させた。葬式で出会った美しい看護師だった。父さんの幸せな家族のことが耳に入ったのは、母さんがわたしたちの一方がおもちゃをほしがり、もう片方が眠りたいというとき、どうすべきか決めかねているときだった。

 たいていの日、母さんはわたしたちを無条件に愛してくれた。しかしときに、わたしたちをじっと見つめているときがあり、さらに、目を向けられない状態に見えるときもあった。おそらく母さんは、自分のような美しい者から、どうして「わたしたちのような」者が生まれ得るのか考えていたのではないか。
 わたしたちが美しくない、というわけではなかった。わたしたちの目は真新しい電球のように輝き、髪は漆黒の光の輪をつくり、くちびるは小さなマンゴーのようにふっくらとしていた。ある伝道師は、二人の善良な人間は仲良くできないかもしれず、美しさは善良さと同様、数学的機能不全に陥るかもしれない、と言った。二人の美しい男の子が一つになったのに、世界はわたしたちを醜いと思った。看護師たちでさえ、わたしたちの生態に困惑しているようだった。わたしたちの足は溶け合い三脚のようで、3本の足を二人で共有していた。わたしたちは分かち合うために生まれてきた。

 わたしたちは互いを名前で呼ばなかった。わたしたちは互いのことを「あいつ」とか「おまえ」のように扱わなかった。すべての会話はゴシップのようであり、不平不満のぼやき、あるいは黙考のようであり、また独り言みたいでもあった。一つの体を共有している人間が、もう一方に怒鳴り声をあげたりできるだろうか。わたしたちは体を一緒に洗った。2本の手が3本の足を洗っているとき、もう2本の手が相手の背中を洗った。わたしたちは互いがデートのとき、会合や質疑応答のときの消去不可能なお邪魔虫であり、夜中に相手の夢の中の息づかいのせいで目が覚めたりした。

 学校では、最初、わたしたちはみんなを驚かせた。その後、好奇心の的になった。教室では、誰もわたしたちの隣にすわる勇気がなく、二人だけですわった。ときに一人が学校の図書室にいたいのに、もう一人は家に帰りたくてたまらなくなり、喧嘩になった。あるいはハンナという女の子が、わたしたちの一方に少し長くキスをしたことで争いになった。

 ハンナは毎晩うちに来るようになった。化学の宿題を手伝ってほしいからとみんなに言っていた。わたしたちはクラスのニュートンだった。ギルバートであれアイザックであれ。ランプの薄灯りのもとで、ハンナは教科書にはない癒合(わたしたちの)について訊いてきた。「誰かとぴったりくっついて、食べたり眠ったり、排便したりするってどんな気持ちなの? 嫌じゃないの? 相手がバカでかい付属器官とか腫れ物みたいに感じられたりしないの? セックスはどうするの?」 ハンナはわたしたちが自問したことのないことを質問してきた。笑えるものもあったけど、多くは不快な質問。いつも帰り際に、ハンナは繊細な手でわたしたちの顔をつつみ、一人ずつ頬にキスをした。その後に、人生の選択でもするみたいに、ためらいつつ交互に一人ずつ、くちびるにキスをするようになった。わたしたちはそれぞれの腕をハンナの腰のあたりにまわして 抱いた。

 こうして女の子を分け合うのはいいことだろうか、と考えることはあった。そうせざるを得ないことだった。肝臓まで共有しているのだから、女の子を分け合うことはそれほど難しくはないはずだった。彼女自身がどうかを除けばの話だが。あえて口に出すことはなかったとしても、心中で自分自身との冷たい争いはあった。ある時点でその沈黙は、レンガ職人がつくる壁となり、互いの息を吸い、一つの体を共有していても、二人の間の裂け目が広がっていくのを感じていた。

 これについてやっと話し合うようになったとき、ハンナは回文配列である、ということでわたしたちは同意した。彼女の名前「Hannah」さえもが、頭から読んでも後ろから読んでも同じ、回文配列だった。ハンナがわたしたちの内のどっちかを選んだとしても、同じということなのか? バカバカしい論理だ、とわかっていた。その後、これについて問いただしたとき、彼女はわたしたちの一方をより好きだと告白した。ハンナは家に来るのをやめた。わたしたちのどっちが好きか、言うことはなかった。

 家でエル(カメルーンの伝統料理)を料理するとき、母親を手伝って、2本の手がウォーターリーフを準備し、それがもう2本の手に手渡され、カットされる。わたしたちは床を磨き、家の水道が出なくなれば、水運びをした。自由時間には、走って遊んだ。その動きは放射状。わたしたちの体は永遠に向き合っていて、絶対に追い越すことのできない徒競走のようだった。道でストレッチをしている人たちは、わたしたちを見て唖然として固まった。

 13歳のとき、チコのキャンプからブエアに移った。母親がそこで仕事を得て、政府の学校で料理と栄養学を教えた。その年の2月11日は、全地域の学生がそれぞれの学校を代表して行進した。ビシッとアイロンをかけた制服のズボン、朝の太陽みたいに輝く靴は、黒い皮の鏡みたいだった。生徒たちは真新しい格好で外に飛びだした。わたしたちの制服は母親の手で作られた。母親は2年間、ケータリング・ホーム・エコノミックスで服の縫い方も習ったのだった。校長先生はわたしたちを生徒会の最前列に配置した。競争相手の学校の生徒が、わたしたちが行進するのをじっと見ていた。わたしたち二人は放射状を保って堂々と行進し、頭上に高々と校旗を掲げた。その後ろには残りの生徒を兵士のように従えていた。行進の競争相手だということを忘れたみたいに、見ている人々は拍手をしはじめた。特別観覧席に到着すると、知事も立ち上がるほどだった。

 うちの校長はわたしたちを利用しているのだろうか、と思うことがあった。去年、文部大臣が学校を訪問したとき、校長は学校代表としてバラの花束を手渡す役にわたしたちを選んだ。大臣はわたしたちを抱きしめ、学校の新しい図書室のために大金を寄付した。大臣と一緒に撮った写真が、家の居間の壁に飾られている。
 ある日、街角で帰りのタクシーを探していると、ぽっちゃりとした女の子が人々をかき分けてわたしたちの方へやってきた。その子はアラスカのチューチューアイスを吸いながら、ぎこちない笑顔をみせた。あなたたちの父さんの娘のズーです、と自己紹介した。妹なのだ。

 ズーはその日、家までついてきて、以来ときどきわたしたちの家に来るようになった。ズーが家にいると、母親は言葉少なになった。ズーはわたしたちのことをどう聞いていたか、どれだけ会いたいと思っていたか、父親に会いたいと頼んでも無関心だったことを頓着なく話した。最初のころ、ズーは「あたしの父さん」と言っていたが、ごめんなさいと言い「あたしたちの父さん」と言い直した。ズーはおしゃべりで、弾丸トーカーだった。わたしたちは母親が口を閉ざしているのに気づいた。ズーは料理を手伝ってくれた。またあるとき、ズーは父親の脳卒中のことを告げ、なぜ自分がブエアの叔母さんのところに送られ、そこの学校に行くようになったか話した。母親は、ズーのジョロフライス(ピラフのような西アフリカ料理)の皿に肉をたくさん盛ったので、父親の病気を祝ってるのだろうか、と思ったりした。

 ある日のこと、ズーはわたしたちを父親のもとに連れていった。父はベランダにすわり、色あせたフンドシ一丁で、外気を吸っていた。皮肉のこもった目でわたしたちを見た。体の半分は崩れ落ち、残りの半分がそれを支えていた。二人の人間が一つに溶け合ってるみたいだった。わたしたちみたいに。父のしゃべり方は不明瞭だったが、聞き取りはできていた。父の声の中に後悔の念を聞き取ろうと、わたしたちは耳を傾けた。が、それはなかった。父はわたしたちがそこで何をしているのか、尋ねた。片方の目はわたしたちがいることに驚いていたが、もう片方はひしゃげていた。父は、わたしたちの呪いが乗り移ったみたいに、もぞもぞと何か言った。そして母親のもとに帰るよう頼んできた。まったく知らないといっていい男を受け入れること、そのことの重要さを理解するのは難しいことだった。

 父の不在を埋め合わせるみたいに、ズーはいつも家にいて、母親の手伝いをしたり、公衆水道にいくわたしたちについて来て、その途上、飛んだり跳ねたり笑ったりして恋するティーンみたいに振るまった。母親もズーに好意を持ち始めていた。ズーはわたしたちに恋していた。ズーの叔母さんはどう思ってるのだろう。彼女が言うには、叔母さんはいつも人を(たいてい男たち)を家に招いていて、ズーがいないのはありがたいそうだ。ズーは、ボマカにいる父方の親戚を訪問すると言えばよく、それはある意味本当のことだった。ある日、わたしたちが外を走っていると、石炭みたいな顔色のドレッドヘアの男が、写真を撮ってもいいかと訊いてきた。1枚が2枚に、それが4枚に、そしてもっとたくさんになった。わたしたちはポーズをとった。声をあげて笑ったり、にっこりしてみせたり、写真を撮られているのを忘れたみたいに振るまった。後に、その人は引き延ばした写真のコラージュをわたしたちに届けてくれた。母親はその写真の美しさに、わたしたちの美しさに息をのんだ。

 父親は結局助からなかった。わたしたちは泣いているズーを抱きしめて、この先いいこともあるよ、と慰めた。家に帰ると、今度は自分たちを慰める番だった。わたしたちを拒んだ人間の死が、どうしてこんなに辛いのか、問うていた。

今日、キミはきみになり、ボクはぼくになる。

 わたしたちはいま、サウジアラビアの病院のベッドにいて、ハンサムな医師が、分離手術についての説明を繰り返している。この医師は先日の写真家の人の友だちで、写真家のソーシャルメディアでわたしたちの写真を目にした。二人は話し合いをもち、医師はチームをつくり、資金の調達もできると言った。わたしたちが手術に同意すれば、と。手術はわたしたちの命に関わる可能性もあった。

 母親は、この手術のことをわたしたちの父親の遺言以上に熟知していたけれど、打ちのめされ何かに耐えていた。医師はすべてうまくいく、と約束していた。足はそれぞれ一つずつ確保し、残りの足は移植の際に使う。義足が与えられ、わたしたちの名前は科学論文に記され、わたしたちには読めない言葉で書かれた専門誌が出版されるだろう。

 わたしたちは今、二人の人間になり、飛行機の二つの席に別々に座っている。家に戻ると親戚や友だちが贈りものをもって集まり、今回は、誰も哀れみや同情から首を振ったりしなかった。ズーはお酒を注いでまわり、秘密の二次会でみんなを酔っ払わせようとしているみたいだった。キミの名を呼ぶボクの口は重い。自分の一部が消えてしまったみたいだ。わたしたちのベッドは二つに分けられ、わたしの夢は自分だけのものになる。シャワーでは、3本の足、二つの顔をこすろうとして、もうそれはないと気づく。昼食が終わり、母親は二人の命を救ってくれたことを神に感謝する。キミが電話を受けにいく。ボクはキミが席を立つのを見ている。ボクも立ち上がる。キミがどこにいくのか、ボクにはわからない。自分がどうやって、なぜ立ち上がったか、わからない。ボクはぎこちなく席に戻り、キミはボクを見てにっこりする。キミが訊く、一緒に来るかと。今、それは選択肢の一つになった。ボクはジャケットを取りに部屋に走る。そしてわたしたちはアスファルトの道を歩いていく。互いの手をとって。キミはあちこちに散らばる、半分水の入ったコップみたいな水たまりのことを話している。ボクは自分だけでこの先の人生を、どう生きていけばいいのかと考える。自分だけの自分とは誰なのか、自分だけの自分とは何なのか、永遠にボクの隣にいると思っていた、キミなしで。

だいこくかずえ訳
LOLWE

著者・ハワード・メブの言葉
 私の書くストーリーの多くは、疑問から生まれることが多い。これであることは、これをする意味は何か。これとあれが一緒になると何が起きるか。望むものを手にしたのに、なぜそれを手放すのか。なぜ人は犠牲を払って作ったものを壊してしまうのか。
 自分の作った登場人物をある状況に投げ込み、私に何かを教えてくれる、何か言ってくれる、それを理解しようとしている。ときに拒まれることもあり、そのときはなすすべなく、登場人物がどのような道を歩むのか、ただ見守るしかない。
 『癒合:Fusion』について言うと、重大な個人的な悲劇というものが、人を優しくするとは限らないということを双子の父親から学んだ。私は病気や死、ある種の悲劇は人を変えるものだ、人を優しくするものだと考えていたところがある。しかしこの小説を書いたあと、いつもそうなるとは限らないことがわかった。無関心のままいる人だっている。
 ひとたび物語が世に出れば、どのように読まれるか、作者がコントロールできることはあまりない。結局のところ小説はフィクションであり、読者はそこからあらゆる見方を引き出すことができる、私が認識していなかったことも含めて。だからたいていの場合、どのような解釈も問題ないと思っている。

Africa in Dialogueのインタビューより

Photo by Rod Waddington (CC BY-SA 2.0)


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