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モーリス・ラヴェルの生涯

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1937年、ラヴェルの死後まもなく、著者マデリーン・ゴス(1892 - 1960)は英語による最初の評伝を書きました。ゴスは当時パリに滞在しており、ラヴェルの弟エドワールやリカル… もっと読む
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記事一覧

XX.終曲

・ラヴェルの葬儀 ・死につづいて行なわれたコンサート ・ラヴェルに捧げられた、リカルド・ビ…

葉っぱの坑夫
11か月前
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V.ガブリエル・フォーレ、人物とラヴェルへの影響

・人間として、教師としてのフォーレ ・国民音楽協会 ・『耳で聴く風景』、とその失敗 ・『シ…

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XVIII.最後の作品

・『マダガスカル島民の歌』 ・ラヴェル(友だちとしての) ・成功に対する反応 ・ナイトライ…

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XVII.アメリカ・ツアー

・プロ・ムジカからの招待 ・契約 ・ケンブリッジでのコンサート ・ニューヨーク・デビュー ・…

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XV. 『子どもと魔法』

・大戦後、ラヴェル落ち込む ・音楽的変化 ・『ラ・ヴァルス』  ・ヨーロッパ、イギリスの旅 …

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XIV. ラヴェル参戦

・バスク海岸にて ・『ピアノ三重奏曲』 ・ラヴェル、大戦へ ・前線からの手紙 ・母の死 ・『…

IX. 『博物誌』

・ゴデブスキー家 ・『序奏とアレグロ』 ・オランダへの旅 ・ルヴァロワ=ペレへの引っ越し ・『博物誌』 ・1900年代初頭の歌曲 ・ラヴェルのオーケストレーション  20世紀に入って間もなく、ラヴェルは若いポーランド人夫妻、イダとシパと知り合いになった。シパは小児麻痺の後遺症で足が悪かった。シパの両親は1831年にフランスにやって来たポーランド難民である。妻のイダは美しいというわけではなかったが、非常に魅力的な女性だった。夫婦の財産は限られたものだったが、ゴデブスキー夫妻は

VII. アパッシュ

・20世紀を迎えたパリ ・グループ「アパッシュ」 ・ラヴェルの友人、仲間たち ・ロシア人作曲…

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VI. 失敗、そして成功

・ローマ大賞の歴史 ・最初のコンクールと2等賞 ・さらなるコンクールと最後の落選 ・『水の…

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XIII. バレエ作品実りの年

・1912年のラヴェル ・『高雅で感傷的なワルツ』 ・『アデライド、または花言葉』 ・『マ・メ…

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XII. ダフニスとクロエ

・サン=マルソー伯爵夫人のサロン ・ディアギレフとバレエ・リュス ・ラヴェル、バレエ曲のた…

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XI. マ・メール・ロワ

・ラヴェルとゴデブスキー家の子どもたち ・『マ・メール・ロワ』 ・独立音楽協会(la Sociét…

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XIX.後悔なし

・事故 ・健康の低下 ・2つの作品の計画 ・スペインとモロッコへの旅 ・病気の診断結果と悲劇…

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XVI. モンフォール=ラモーリーの家

・「ベルヴェデール」紹介 ・ラヴェルのいたずら好き ・主人(ホスト)として、先生として、話し上手な人として ・ラヴェルのシャム猫たち ・エレーヌ・ジュルダン=モランジュ ・バイオリンとピアノのためのソナタ  パリ盆地(イル・ド・フランス)とランブイエの森を見おろすなだらかな丘の上に、絵のように美しいモンフォール=ラモーリーの小さな村はある。道幅の狭い石畳のきつい勾配を、街の中心地に向かってくねくねと登っていくと、そこは中世の教会が過ぎ去った日々を夢見る場所。いくつかの店と一