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XX.終曲

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著者マデリーン·ゴス(1892 - 1960)はラヴェルの死後まもなく、英語による最初の評伝を書いたアメリカの作家です。ゴスは当時パリに滞在しており、ラヴェルの弟エドゥアールやリカルド・ビニェスなど子ども時代からの友人や身近な人々に直接会って話を聞いています。『モーリス・ラヴェルの生涯』は"Bolero: The Life of Maurice Ravel"(1940年出版)の日本語訳です。Japanese translation © Kazue Daikoku

・ラヴェルの葬儀
・死につづいて行なわれたコンサート
・ラヴェルに捧げられた、リカルド・ビニェスの楽曲
・仲間たちによる追悼の言葉

 ラヴェルの弟エドワール・ラヴェルは、兄が仰々しい公の葬式や、フランス政府による、亡くなった著名人を讃えるための式典を望まないことを知っていた。常にモーリスは、自分を宣伝したり、聴衆から多大な賛辞を受けることを避けてきた。彼の最後の希望は、この世を去った後も心の友としていつもそばにいた父と母、その二人の隣りに静かに埋葬されることだった。
 年が暮れようとしている1937年12月30日、質素な葬儀の列が、ルヴァロワ=ペレの墓地へと続いた。葬儀をできる限り簡単なものにしようとしていたエドワールの努力にも関わらず、友人知人やこの作曲家を慕う人々の群れが、最後の感謝を捧げようと集まった。彼らはモーリス・ラヴェルの音楽だけでなく、この物静かな小さな男の人間性をも愛していた。たくさんの若い音楽家たち、その中には友の死を深く悲しむイゴール・ストラヴィンスキーの姿もあった。国民教育大臣のジャン・ゼイが、フランス政府代表として、墓前で感動的な追悼の言葉を述べた。

 不思議な巡り合わせで、12月28日(ラヴェルが死んだ日の夜)に、『子どもと魔法』の生放送が組まれていた。ラヴェルと最も親しかった友人たち、弟子たちの何人かが、この世を去った音楽家の「生の声」を聴こうと、パリ高等音楽院のホールに集まった。ロラン=マニュエル、モーリス・ドラージュ、ストラヴィンスキーといった人々である。マニュエル・ロザンタルがフランス国立管弦楽団を指揮した。心のこもった情熱に満ちた指揮に導かれて、歌い手やコーラス、オーケストラはその日、これまでで最高といっていい素晴らしい演奏をした。
 これはラヴェルの死後、初めて捧げる演奏となったが、その後を多くの者が追った。ラジオ放送、あちこちのパリのオーケストラによるラヴェルの楽曲のみのコンサート、談話や賞賛の言葉などがつづいた。ラヴェルの死の数日後には、アンゲルブレシュト指揮、国立管弦楽団による、別のラジオ・コンサートが行なわれた。演目はジャン・ドワイアンのピアノによる『ピアノ協奏曲ト長調』と組曲『ダフニスとクロエ』だった。次の週には、ウジェーヌ・ビゴーが、「ソリストたちの祭り」でラムルー管弦楽団を指揮した。マドレーヌ・グレイが『シェヘラザード』を歌い、ジャック・フェブリエが『左手のためのピアノ協奏曲』を弾き、リリー・ラスキーヌが『序奏とアレグロ』をハープで演奏し、バイオリン奏者のシュワルツが『ツィガーヌ』を、そして『ボレロ』でコンサートは締めくくられた。翌年1月19日には、ラヴェルの楽曲を集めた特別祭で、マルグリット・ロンが、ポール・パレー指揮によるコンセール・コロンヌで『ピアノ協奏曲ト長調』を演奏した。世界中がラヴェルの死を悼んでコンサートを開催した。

 心に残るコンサートの一つとして、サン=クルーの小さな町で開かれたガラ・コンサートがある。大聖堂の隣りにある市役所で、音楽と感謝の言葉がラヴェルに捧げられた。

鐘楼のある大聖堂の一つ(サン=クルー)
photo by Chabe01:CC BY-SA 4.0

 ラヴェルの子ども時代からの友人、リカルド・ビニェスがプログラムを組み、ラヴェルの思い出として書いた自作曲を演奏した。数年前に、ビニェスは『サティ讃歌』を書いており、友だちのラヴェルのためにピアノ曲を書きたいとずっと思っていた。ビニェスは1937年初頭にこれを書きはじめていたが、曲が暗く、物悲しい響きをもっていることに気づいて、(なぜそうなったのか説明できないまま)書き進めるのをやめていた。ラヴェルの死のニュースを聞いて、ビニェスはこの曲を仕上げた。『亡霊のメヌエット:モーリス・ラヴェルを偲んで』と名づけた。
 メヌエットは物悲しく優美で、サン=クルーの記念コンサートの精神を見事に表していた。楽曲の深い低音部が、鐘の音を効果的に響かせていた。すると突然、隣の大聖堂の鐘が鳴り出した。
 その音は、『亡霊のメヌエット』の深い響きそのものだった。「教会の鐘さえもが、あの輝かしく不朽の存在、ラヴェルの死を悼んでいる…」


 モーリス・ラヴェルへのたくさんの心動かされる賛辞が贈られ、その中に彼の生涯を綴った文章があった。突出したものとしてロラン=マニュエルによる作品、そして親しい友人たちによる二つの「思い出集」がある。「モーリス・ラヴェルへの追悼」(音楽レビュー誌、1938年12月特別号)、「友人たちによるモーリス・ラヴェル」(ロジャー・ワイルド編)である。
 ベルナール・グラッセ(出版者)による紹介文には次のような文章が含まれている。

モーリス・ラヴェルはフランス人の中でも、抜きん出て高潔な精神をもつ人物である。率直さや誠実さの中に優美なところがあり、堂々としたその姿……そして友だちへの深い愛、恩知らずな者への寛大さ、非常な繊細さをもちながら大胆でもある……その輝きによって、20世紀初頭という時代をおおいに刺激した。

  エレーヌ・ジュルダン=モランジュ(バイオリン奏者)はこう言う。

彼の人生は真っ直ぐなものでした。彼の音楽が、細部への拘りのせいで全体の流れが損なわれることがないように、彼の細かいことに腐心する日々の暮らしが、高潔な生き方に影響を及ぼすことはありませんでした。

 モンフォール=ラモーリーの家の隣人であったジャック・ド・ゾゲブはこう書く。

あの人は比類なき魂をもった偉大な人でした。彼が嘘を言ったことはないと思います。その誠実さ、そして名誉とか栄誉に価値を置かないところには、崇高さがありました。

 レオン=ポール・ファルグ(フランスの詩人)はこう述べている。

彼は何かを成すことが、うまく成すことが好きだった。彼の頭脳から生まれたものはすべて、完全無欠の印をもっている。彼の情熱は、最高のレベルまで磨かれた作品を世に送り出すことだった。

 ラヴェルの研究を通して、同時代の誰よりもこの作曲家に近づいたロラン=マニュエルはこう言う。

ラヴェルは優美さ以上に率直なところのある人だった。誠実さ以上に礼儀正しさがあり、気ままさより他者に対する気遣いやユーモアがあり、仲間うちでの迎合より友情に心を傾け、比べるもののない正直さと無邪気なところがあった。
彼が人に対して悪意や裏切りを疑うことはなかった。26年間の付き合いの中で、彼が誰かに逆らうような発言をするのを見たことがない。(戦争中に)国のために身を捧げることを申し出たこと以外に、自分のために何かを誰かに頼むのを見たことがない……
ロンサールの碑文を借りるなら:
単純明快で、殺人の意図や悪意や憎しみなどなく、人々が羨むような好意や財宝を軽んじる。

*『モーリス・ラヴェルの生涯』のこれが最終話です。最初から読みたい方は、<もくじ>からご覧ください。

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