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縄文時代から変わらぬ 豊穣な「海の幸」
はぴみんのずんだ党フードサミット 雑煮編 もっと深掘りトーク①
はぴみんのずんだ党フードサミットでは、食物を通じて宮城県の自然や
歴史、文化についてお話する会を、毎月1回開催しています。
2024年1月6日には、宮城県の伝統的なお雑煮であるハゼ雑煮とホヤ雑煮を
テーマに、この地に縄文時代から受け継がれている自然の恵みと分かち合いの文化をご紹介しました。
今回は、豊穣な宮城の「海の幸」を、縄文時代と現在に分けて、より詳しく見ていきましょう。
宮城の縄文人の食生活は?
宮城県って、全国区では、そんなにメジャーな県ではないですよね。
地図で見ると、赤い部分が、宮城県になります。東北地方の中では、わりと面積が小さい県です。
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47都道府県の中での順位は、面積の広さが16位で、人口の多さは14位になります。
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https://www.pref.miyagi.jp/documents/5966/miyagiguide-otona2.pdf
全国的に見ても、面積がすごく広いというわけではない宮城県ですが、縄文時代から人が住んでいた痕跡である貝塚が約210ヵ所あります。これは、茨城県、千葉県に次いで、全国で3番めの多さです。
特に、70ヵ所もの貝塚が集中している松島湾沿岸には、国内最大級の規模の里浜貝塚があり、縄文時代前期(約6,800年前)から弥生時代中期まで、4,000年以上にも及ぶ人々の生活の営みが残されています。
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この地域での縄文人の食生活は、どのようなものだったのでしょうか?
貝塚を緻密に分析して、その詳細を明らかにした「松島湾の縄文カレンダー 里浜貝塚」(会田容弘著 新泉社 ©2007)を読んでみましょう。
食料豊富な自然環境
東西約一〇キロの松島湾をとり囲んで三カ所に貝塚遺跡群、つまり集落群が集中しており、そこに四〇〇〇年間、人びとが暮らしていたのである。天気のよい日には、対岸の集落からたなびく煙もみえたことであろう。
このような近距離に複数の集落が存在してもつきることのない資源が、松島湾をとり囲む自然環境にあったのである。
季節により変化する海の幸
里浜縄文人が季節の変化をもっとも感じたのは海であったろう。季節の変化にあわせて食卓にのる海の幸は変化する。
里浜貝塚は、北側に内海、南側に外海が広がり、四周を海に囲まれた宮戸島に位置することから、水産資源にはたいへん恵まれていた。
春の漁
松島湾内での春の捕獲対象魚は、通年とれるアイナメ・フカカサゴ科・ウナギである。また春の大潮にあわせて貝類の採集が始まり、七月ごろまで継続する。大量に捕獲したアサリ類は干し貝などに加工した。四月には、湾内を回遊するマイワシの群れやフグを網猟で捕獲する。大量に捕獲した魚類は頭とワタをとりはずし、保存用に加工して内陸のムラへと運ばれた。
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夏の漁と製塩
夏の漁場は外洋側に拡大した。大型魚は外海に出ることではじめて捕獲できる。マダイや大型のスズキやブリ、さらにはクロマグロ、マアジ、マサバなどの外洋性回遊魚がねらいである。やや不安定ながら丸木舟をこぎ出して大型魚を追う。
捕獲方法は沖合では集団による追い込み漁、近寄りでは釣り、潜水漁法もおこなわれた。小型魚は網漁などが考えられる。捕獲したタイ類は頭を落とし、開いて乾し魚として加工した。
(中略)
また貝類では、アワビ、アカニシ、ヒメエゾボラ、さらにはウニなどがこの季節に出現する。
夏には、食料獲得以外に重要な塩づくりがある。大量に消費する塩づくりのための製塩土器もこれに先立ってつくらなくてはならない。薄手なので、煮沸中にすぐこわれるし、ほかの村への塩容器としてかなり多めに作る必要があった。
(中略)
これらの塩は調味料としてよりも、むしろ魚類加工の添加物として使われた可能性が高い。生魚も、塩蔵や乾燥・燻製にすることで、長期保存が可能になるだけでなく、遠くに運ぶこともできる。
秋の木の実採集
秋には、トチ・クリ・クルミなどの堅果類の採集がある。
(中略)
里浜縄文人は、縄文前期の気候が温暖化した時期にクリ林を拡大し、前期・中期には安定したクリの収穫を得ていたようである。
(中略)
約三九〇〇年前を境にしてクリ林からトリ林へと植生が変化したことが、花粉分析から確認されている。
(中略)
クリはそのまま食べられるが、トチはアクぬき工程が必要なので、食料になるまでには手間がかかる。しかし、トチはよく管理した林では多量に採集でき、しかも保存性にすぐれているので貯蔵され、通年にわたって縄文人たちの主要なカロリー源となった。
冬の狩猟
縄文時代の狩猟獣は、シカ・イノシシが中心である。民族誌によると、それらの狩猟は冬におこなわれる事例が多く、縄文時代の遺跡で出土したシカの歯を検討した大泰司紀之も、冬季に捕獲されたものが多いと指摘している。
(中略)
シカ・イノシシの捕獲数は少ないが、ガンカモ類を中心とした渡り鳥を弓で射る猟は活発におこなわれた。
(中略)
なお、中期から後期にかけて認められる捕獲動物にアシカ、イルカ(図52)、クジラ、ウミガメがいる。
海に囲まれた里浜貝塚のある宮戸島は、種類も量も豊富な海産物に恵まれ、塩づくりに励んで、捕獲した魚介類の保存にも熱心だったようですね。
現在の宮城の「海の幸」は?
「宮城の水産業」というパンフレットが、宮城県のホームページで公開されています。これを見ると、現在の宮城県では、どんな「海の幸」が大切にされているのかを知ることができます。
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宮城県は全国屈指の水産県
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宮城県の沖合の三陸沖は、寒流の親潮と暖流の黒潮がぶつかる海域のため、魚の種類と量が非常に豊富な世界3大漁場の一つです。
太平洋側に南北に長い海岸線を持つ宮城県内には、143の漁港と9カ所の水産物産地卸売市場があります。
生産量が全国上位の宮城県の水産物は、サメ類とカジキ類が1位、マグロ類とガザミ類とオキアミ類が2位、カツオとサンマが3位です。養殖では、ギンザケとワカメ類とホヤ類が1位、カキ類が2位、ホタテガイが3位となっています。(「ウェルカムみやぎ観光ガイドブック 2023」15ページより)
主な漁船漁業
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主な養殖
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河川や湖沼での漁業
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現在の宮城県では、船による遠洋漁業、沖合漁業、沿岸漁業に加えて、沿岸部のみならず河川での養殖業も盛んです。
近年の気候温暖化により、ハゼ、サンマ、サバなどが不漁になったり、回遊する時期が大幅にズレるといったことはありますが、一年を通じて魚介類の種類や量が豊富であることは、縄文時代と変わりませんね。
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