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幸い(さきはひ) 第五章 ⑫

第五章 第十二話

「まず、私のことを好ましいと思ってくださったこと、大変驚きましたが、純粋にお気持ちは嬉しかったです。

ありがとうございます」

 千鶴はゆっくりと、誠実に、自分に求婚してくれた中路に対し、言葉を選び、話す。

「しかし私は今、桐秋様の看護をさせていただいております。

 私はこの仕事に真剣に取り組んでおり、辞《じ》そうとは考えておりません。

 ですので、看護婦として先生の地元に行くお話や、配偶者として迎えていただくお話、お断りさせてください」

 相手を気遣いながらも、はっきりと断る千鶴の声に桐秋は心の底でそっと安堵した。

 そんな千鶴に中路は言い募る。

「そういうことであれば、桐秋様の看護を続けてもらって構わない。

 来てもらうのは、終わってからでいい。

 ここには長くはいられない。

 それは君も分かっているだろう」

 中路の言葉が桐秋の胸に杭《くい》をさす。

 遠回しに、けれども確実に、自分の命が長くないことを告げられている。

 そしてそれを千鶴もわかっていることだろうと。

 しかし、

「いえ、必ず。

 桐秋様の病は必ず、治ります。

 私は桐秋様が良くなるまで看病を続けます」

 千鶴は今までに聞いたことがないほどに声を荒げて、中路が言ったことをきっぱりと否定する。

 どこまでもどこまでも、自分の想いを貫こうとする頑是《がんぜ》ない子どものような。

 桐秋はいつもと違う千鶴の声音に驚くとともに、その声で放たれた桐秋を思う言葉に、狂おしいほどの愛しさが募る。

 桐秋の手が心ともなく着物の上から胸の中心を掴む。

 なめらかで手ざわりのよい柔らかな絹の感触が、桐秋の手いっぱいに拡がった。

 しばらくして、千鶴は落ち着いたのか、普段どおりの声で再び話しはじめる。

「それに私は、中路さんがおっしゃってくださったような看護婦ではありません」

 千鶴から発せられた思いもがけない言葉に、桐秋は再び壁側に意識を向ける。

「私は、看護婦としてまだまだ未熟です。

 それでも、その時、その時に、自身に行える最善で患者さんに尽くしてきました。

 誓ってそれは間違いありません。

 ですが、私が、看護婦である理由は、たくさんの患者さんを救いたいからだとか、一人一人に寄り添いたいからだとか、そんな殊勝な理由ではありません。

 とても自分勝手な理由なのです。

 今もそれを叶えるためにここにいます。

 ですから、私は、中路さんがおっしゃるような立派な看護婦ではありませんし、絶対にここを離れるわけには参りません」

 後半になるにつれ、千鶴の語気は強くなっていき、最後の一言には誰も動かすことのできない巌《いわお》を思わせる重量があった。

 きっと今はあのまっすぐな意志をもつ瞳で中路を見つめている。

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