インドのヨガと日本のヨガ

先日のヨガの話を補足しておくと(Facebookやインスタの話なので失礼)、俺が学んだヨガが魔術や呪術に近いというのは、それらがマントラ(呪文)やムドラー(印法)、ヤントラ(図形)あるいはヒンドゥーの神のイコンを使用した儀式として行う技法という事なのだが、これらはインド人にとってのドメスティックなもので、これを言語も文化も世界観や宗教の全く違う日本人がそのまま行なっても当然ながらインド人と同じ効果は望めない。
例えば
ASAT MA SAT GAMAYA
という代表的な呪文があるのだが、これは
「まやかしの存在である私を真実と導いてチョ」
くらいの意味だ。欧米の言語として解体するなら
ASAT(UN-STAND) MA(ME) SAT(STAND) GAMAYA(GO)
非-真実 私 真実 行く
みたいな感じか。
インドも欧州と同じアーリア系なので、このようにヨーロッパ言語とは単語的にはギリ接する。要するにヨーロッパ人ならなんとなく語感としてこの呪文のニュアンスを捉えられるかもしれない。だが日本人はそうはいかない。この「アサトマサットガマヤー」の語感つまり感覚では、日本語話者にはどうやってもその意味のニュアンスは出てこないのだ。
逆の例えを出すと、日本人なら「アケボノ」「タソガレ(カワタレ)」という言葉だけでそれらの風景を想起できるし「シンシン」という擬音には静けさを「ザワザワ」という擬態には不安感や不穏さを、「シミジミ」という言葉には特有の情緒を感じることができる。だけどインド人も欧米人も「AKEBONO」「SHIN SHIN」「ZAWAZAWA」『SHIMIJIMI」という言葉の意味を習って頭で理解したところで、それを唱えても風景や情緒が想起されることはない。
また、
「私はマボロシのような立ち位置にあり、それとは別に真理があってそれを目指すべき」
みたいな発想はアジア独特のものであってアブラハム系宗教の欧米の発想にはない(イデア説のように哲学では存在するが一般的な人々の世界認識の仕方というわけでは無い)。アジア独特とは言ったが、そもそも日本人だって熱心な思想的仏教徒でもなければこういう世界観は共有していない。
要するに、感覚として意味のつかめない呪文、しかもその意味にすらピンとこないものをいくら唱えても大した意味はないことになる(実は違う方法でマントラに世界共通の意味を付与できるのだけどそれは今のテーマではないので割愛)。
同様にヒンドゥー神のイコン、例えば身体内にシヴァのイコンを布置するとか、下降するエネルギーはドゥルガーのシャクティであるとか、それらイコンの布置(ニヤーサ)は、生まれながらにシヴァやドゥルガーといったヒンドゥーの神々に親しみそれらの役割や力能を知りを信仰しているからこそ意味や効果があらわれる。
つまり、これらの古典的なヨーガ技法を日本人がそのまま行なっても、単なる技法的コスプレにしかならないのだ。
もちろん馴染みの無い語感や不可思議なリズムやイントネーションで構成されたインドのマントラを唱えるのはファンタジックでありロマンがある。でも本当にファンタジックでロマンがあるってだけにしかならないので、フリだけを真似て陶酔するのはまさしくコスプレのメンタリティなわけよ。なんの疑問も違和感も持たずにマントラを愛好しているヨガ実践者にプラグマティックにものを考えられる人間はいない(上記のようにマントラに違う意味を付与している者は別だが、少なくとも俺の周りのマントラ好きにはそのような人間は誰もいなかった。マントラの使用法自体が全く違うので一目瞭然でわかる)。
今はほんの一例を出したに過ぎないが、古典的なヨーガの技法のうちその民族や文化、宗教に根ざした世界観や思考パターンを利用する儀式的な部分に関しては、そのままファンタジックでミステリアスでロマンチックに流用するのでなくそれぞれの文化世界観信仰に合わせたアジャストが必要になる。本当はそれが一番いいのだけど、現実にそのローカライズを行うとヨガは各ローカルに閉じ込められた極めて閉鎖的なものになってしまう。日本人のヨガは日本人にしか教えられず日本人にしか理解できない。ナントカヨガアライアンスも何の意味もなくなる。
そこで俺はヒンドゥーにローカライズされる手前、古典ヨーガの魔術的呪術的な要素の最大公約数を取り出すことにした。効果としてインド人に遅れをとることなく万国共通に最大限の合理性を享受できるような、理の結晶のようなヨガ。10数年前から行ってきたワークショップでテーマにしてきたのはずっとそれだった。さらに言えば、ヨガの理論の根っこを支えている独特の哲学や世界観を信じずとも受け入れるための屁理屈も編み出した。数年前にイタリアのヨガカンファレンスでやった講義のテーマはまさにそれだった。
そんなわけで俺が使うマントラは音声学や音響学的に完全な意味の見出せたビージャ(種子)マントラだけだし、もし例の一連のロマンチックなマントラを用いる時は、上に記したような別の意味合いを付与する時だ。ナーディやチャクラは使用するがこれらはインドローカルなものではない。人間の意識や世界観に関連した完璧な合理性を説明できる。少なくとも俺はね。そしてプラーナは不可思議なエネルギーでもなければ「氣」でもない。それはある種のコンセプト〜概念なので、その存在を信じる信じないの話ではない。暑いとか寒いとか美味しいとかムカつくとかいう気持ちを信じるか信じないか?なんて話はナンセンスなのと同列にある。プラーナとはそういう種類のもの。
俺がもしちゃんと人にヨガを伝えるなら最初の概論はこんな感じになる。ファンタジーやロマン要素は完全にゼロの、乾っからに乾き切ったエッセンスのみのヨーガ。ただしイマジネーションは脳が沸騰するくらいには酷使することになる。

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