家事問題

 料理が好きだ…とは、実は口が裂けても言えない。
私が料理らしい料理に着手したのは、精々三年程前である。
 当時私は、社会人になって二度目の無職を経験し、しかし二ヶ月後には職場復帰を想定していたことから、未来に何ら特別な不安も抱かないまま、失業保険の受給を受けつつ、その機会を待っていた。ただ違っていたのは、一度目の無職を経験した折り、大切な存在をふたりも失った痛手から、一日の殆どをベッドで過ごしていたのに対し、二度目は精神的な傷を殆ど伴っていなかったことで、ある程度希望を持って生きていたという点である。
私は思った。
『仕事復帰するまでの空いた時間に、今まで出来なかったことをしよう!』
 それが料理だったのである。
 生まれてこの方実家暮らしで、家事は手伝ってもそれは〝料理以外〟と決まっていた私…。料理は母の仕事で、自分が出来るようになると考えもしなかったのは、母に纏わるイベント等で、思い立って料理本なんぞを開けば、どうしてそうなるのか、出来上がるのは完成品とは程遠い異物。時には、口に入れても胃に送るには憚られるような代物しか、作れなかったせいでもあった。
 私に料理の才能はない。レシピ通りにやってもこの結果なのだから、楽しいどころか、ヤル気さえ消失する。
「結婚するなら料理が出来る人とがいいわ」
 などと本気でのたまい、作るのは母、片付けるのが私…と、きっちり役割分担したことで、〝台所に立たない〟という肩書を〝皿洗いが仕事〟という風に、堂々と書き替えたのである。
 そんな私が料理に目を向けたのは、勿論前述した向上心からの一念発起がきっかけであったのだが、そもそも〝家でじっとしている〟とか、〝暇を持て余す〟とかいうのが頗る苦手な人間であったせいでもある。前回の〝一日の殆どをベッドで過ごしていた〟時でさえ、〝昔取った杵柄〟で母が大量に残していた毛糸を用い、手取り足取り教えてもらいながら、ひたすら編み物に没頭。中でもモチーフ編みに憑りつかれて、使いもしないストールやひざ掛けなんかを何枚も拵えた。当時は真冬で、心が痛くてベッドから出られないのと共に、寒くて布団から出られない…ということが重なり、更に布団に入っていて出来ること…という条件が重なって、既に材料が揃っている〝編み物〟へと走ったのである。
 しかし今回はちょっと訳が違う。心の痛手からは四年が経過していたし、季節は春も春。世間はどんどん外へ出て行く門出の4月であった。
誰もが籠りがちの冬を越したというのに、私はこれから籠ろうとしている。とはいえ、ベッドで一日過ごすには心は比較的安定しているし、世の中は彩り華やかで暖か過ぎるのである。そして、私は職を失ったが、私より年寄りの母は、変わらず社会に出て働いていた。出来なかったことを出来るように…と言えば聞こえは良いが、実際、働き盛りの独身女が家でだらだら過ごしているのに、そろそろ隠居しても良いような〝いい年〟の親が、一家の家事の殆どをほぼ完璧に熟した上で、外へ働きに出ていることへの罪悪感が根底にあったことは否めない。
 私は二度目の無職期間、掃除(母は仕事の前に家中を掃除してから出かける)以外の家事を担うことで、母の負担を軽減し、罪悪感からの逃避を図ったのである。
 そんな理由から始まった〝家事手伝い〟の日々。昔、テレビなんかを見ていると、インタビュー等で職業を訊ねられた年頃の娘さんが「家事手伝いです❤」と可愛く答えているのをよく目にしたが、そう言いながら恐らく何も手伝っていないのであろう彼女等と違い、私の〝家事手伝い〟生活は、そんな可愛らしく答えられるようなものとは程遠かった。
 洗濯機を回している間に風呂を掃除し、洗濯物を干したら犬を散歩に連れ出す。帰ったら昼食、そして後片付け。夕食の下ごしらえをして、洗濯物を取り入れて畳み、家族各自の部屋に分別して持っていく。そうこうしているうちに母が帰宅。お茶を入れて一服したら、再び犬の散歩。帰ると本格的に夕食の準備。そして後片付けをしたら、もう一度犬の散歩で一日は終わる。
どうも犬の散歩が多過ぎる気がするが、基本は朝・夕・晩の一日三回。休日で天気の良い日はサービスの昼散歩が入る為、働かずして〝毎日が日曜日〟の身としては、犬孝行もある意味家事の一環。朝は毎日だらだら寝ていたが、目覚めてからはフル回転で、主婦とはこんなに忙しいものかと我なから驚いたのであった。
 中でも料理は殆ど初心者。レパートリーなどあってないようなものであるし、包丁で手を切りたくないので、下ごしらえをするだけなのに頗る時間がかかる。そして気付いたのは、私は〝レシピを見ながら作る〟ということが、どうも苦手だということであった。
 何が苦手かというと、先ず、手が追い付かないのである。
 例えば、野菜を茹でようにも、材料が切り揃う前に鍋の湯が沸騰してしまう。調味料を順序良く入れられない。レシピの文面を読んでいるうちに、順番を抜かしていることに気付く。また、一つのレシピを読みながら作っていると、その一品しか出来上がらないのである。これではいくら時間があっても足りない。台所に立ちっぱなすこと数時間…足はだるくなるし、包丁に慣れていないせいで力が入り過ぎるのか、腕が殆ど腱鞘炎であった。
仕事から帰った後、「足がだるい」と繰り返しながら、台所に立っていた母の気持ちがようやく分かった気がした。主婦歴三十年以上のベテランである母がこうなのだから、ぺーぺーの私にとって簡単であるはずが無い。
 こうして始まった私の料理人生は、〝レシピを見ずに、手順を逐一母に聞く〟ことで、次第に要領を得て来る。疲れて帰り、今までしていた家事を他の誰かがしてくれていることで、僅かながらのリラックスタイムを手に入れた母は、娘が数秒ごとに「次何入れるん?」「根菜は水から茹でるんやっけ?」「砂糖の量はどのくらい?」「少々ってどのくらいよ!」と質問攻めにしても、嫌な顔一つせずに指示を与えた。
 また、「私には一生出来ない」と思っていた軽快な包丁さばきは、〝早く切っているフリをする〟という自らの演技力によって、本当に早く切れるようになっていったのだから驚く。最初はまな板をトントン云わせているだけで、肝心の物は全く切り進んでいない…ということがままあったが、その気になって演じるうちに、〝フリをする〟がいつしか〝ちゃんと切れている〟に昇華したのだ。出来ていなくても出来ているつもりでやっていると、出来るようになることがあるのかも知れなかった。
 〝食わず嫌い〟ならぬ、〝やらず嫌い(?)〟だった料理であるが、こうして無理にでも毎日やっていれば面白味も出てくるというもので、栄養や彩のバランスを考えながら献立を考えるのも、それなりに愉快と言えた。唯、冷蔵庫の材料を見て、過去の食卓に並んできた物を思い返しながらメニューを考えるので、どうしてもワンパターンになる。レパートリーを増やすべく、違ったものを母の指示を仰ぎながら作るものの、結局自分が作り易いものだけが記憶に残って、暫く間があくと、新しく開拓したメニューは、作ったことさえ忘れる始末であった。
 とはいえ、〝家事手伝い〟の肩書が、当初の予定を何倍も上回って十ヶ月にも及んだことから、私は思いがけず〝料理が出来ない女〟から〝少しは料理が出来る女〟へと成長したのである。後半は求職鬱状態で、あまり気分よく台所に立った覚えはないのだが、職場復帰した後も、腕が落ちることを恐れて(私が台所に立てない時、たまに母が変わることがあると、何と味が落ちていた!)、極力休日は台所に立つよう心掛けたせいか、現在も一応〝少しは料理の出来る女〟である。と言えるのは、当初三時間は下らなかった調理時間が、三年を経て一時間かからなくなったのだから、ある程度胸を張っても許されるのではないかと思う。
同世代は結婚し、子どもを育て、早ければそろそろ手も離れている。自分の時間を持つことが可能になり、趣味や遊びに気持ちが向いていく…そんな〝いい年〟の大人の女の料理歴が、僅か三年。世の奥様方にすれば失笑ものであろう。しかし私にとって、家事労働の中で料理は特別大変な存在だ。大変さを知っているからこそ、軽々しく〝好きだ〟と言えないのである。
脚本家の三谷幸喜氏が書いていた。氏にとって料理とは、〝気分転換〟なのだと…。趣味とも述べていたかも知れない。
 そう言えるのは、氏にとって料理が、家庭生活を営んでいく上で、義務的役割ではないからであろう。しても良いけどしなくても良い…。本人にとって必然とされる役割ではないという点で、それは気分転換や趣味として、緩く形容出来るのである。
 私に兼業主婦は無理だと実感している。専業主婦としてなら出来るかもしれないが、仕事に行って子育てもし、家事も全て担っている兼業主婦の皆さんに脱帽である。そして、しんどいしんどいと言いながら、それを三十年以上やり続けて来た我が母には、足を向けて寝られない。
 話に因れば、家事労働を賃金換算すると、年間千二百万は下らないという。それを聞いて、家庭内を見直さないのであれば、大分愚かなことである。一家の主である人々が、それに見合う経済力で、家庭を支えているとは到底考えられない。全くゼロではないであろうが、恐らくほんの一部だろう。
 自らの手でやってみて、やってみなければわからない大変さを実感した私は、食事も洗濯物も、自動的に出来上がって来るものと思っているらしい、愚か者の代表である我が父の存在に、苛つく今日この頃である。

 

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