4月26日 ③

 今朝の記事には、子どもを諦めた同世代のことが書かれてあった。
 幸か不幸か、私が昨今まで関わりのあった同世代は、皆就職し、結婚出産を経て、離婚もせず、それなりに暮らしている。仕事が落ち着かず、結婚も出産も、通れる道ではないと気付いて、今、仕事すら失ったまま、迷子のように生きているのは私くらいだ。
 世の中の同世代すべてが、私や新聞記事に取り上げられるような人々のように生きているわけではない。実はこちらの方が少数派なのではないか…。ずっとそう思って生きて来た。そんな時間の方が長い。
 正社員として働き、伴侶を得て子どもを育てる環境にあった同世代は、決して自分たちを【社会に見放された世代】などと思わないだろう。むしろ周りはそういう人ばかり。だからずっと、私は孤独だった。
 阻まれても阻まれても、歩きたい道は変わっていない。教育業界で、教員としてではなく職員として働きたい。それが叶えば、将来なりたい自分を築くことに繋がるし、目指す自分を形創る基盤を、整える精神的余裕も出て来るはずだと頑なに信じているのは、この四年間、自分という人間をひたすら見つめ続けてきたからだ。
 思うように生きられないことは自己責任。そうではないとメディアが呟き始めただけでも、世の中は成長しているのだと思う。しかし、社会全体に浸透するまでは、果てしなき道で、それさえ続くのかわからない。風化してしまう方がきっと、早いだろう。唯…。新聞の中の小さな記事に目を止めて、当事者でもある社会問題について書き残す時間が、悲しいかな今の私には在る。
 なりたい自分になれないのは自己責任であり、力不足。全くそうではないとは言えない。
 しかし、なりたくなくても社会に役立つ人間になる。それが我々世代の役割だと言うなら、果たしてそうなのだろうか?と疑いたくなる。我々も心を持つ、人間だからだ。
 同じゼロからのスタートだとしても、年を取っているというだけでチャンスが与えられないことには意味がある。ある人に言われた。
「仕事出来へんから仕事決まらんねやろう!」
 その人は、私が働いている現場を見たことがない。どんな風に仕事をしていたか、そもそも、何を仕事にしていたのかも知らないのではないかと思っている。投げつけられたその言葉はあまりにも鋭利で、私の心を深く削り取った。えぐれた傷は、今も血が止まらない。
 社会は口に出さなくとも、同じような眼差しで我々を見てはいまいか?
 社会は我々を見放しただけでなく、抹消したいのかも知れない。だったらお望通り死んで差し上げましょう。そう言えたら、もしかしてずっと楽なのかも知れない。
 しかし私は、未だ生きている。より良く生きられる希望の持てない世の中で、自分に何が出来、それがちゃんと自分の幸せに繋がるのか、ずっと、考え続けている。
 それなりに生きている人々は鼻で笑うかも知れない。
「自分を振り返れ。贅沢を言ってる場合か」と。

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