上に立とうとするな、とは?

 「人の上に立とうとしたらあかんよ…」
 初対面の人間に対して様々なことを言い当てる占い師(霊能者?)が、嘗て、私に向かって発した言葉である。
 人の上に立とうとするなとは…?
 言われた言葉にピンと来なかったのは、自分が誰かの上に立とうと思って行動したり、言葉を放ったりした経験も自覚も無かったからであった。
 人の上に立とうとするとはどういうことなのだろう。就職氷河期から正規雇用の機会を逃し、二十代に於ける結婚適齢期を何の浮き沈みもないまま通り過ぎて、我武者羅に働いても社会的評価とは無縁のアルバイトという立場で走り続けて来た私には、自分が誰かの上に立とうと考えたことも、立つことになると考えたことも無かった。 
 給料も上がらなければ役職も上がらない。アルバイトである以上、それらは承知の上であった。かといって手を抜くという術を知らない。人間相手の商売であるが故に、術を知っていたとしてもそれを実現させるには大きなリスクを伴うのは目に見えていただけに、〝要領良く生きる〟ということが、あまり現実的とは言えなかった。勿論、唯単に自分が不器用だったというだけで、自分には出来ない〝要領の良い生き方〟を実現している人々を後目に苛々しつつも、『自分に恥ずかしくないように生きる!』と、生真面目さ満開で仕事と向き合っていただけとも言える。
 とはいえ、決して潔癖でない人々に、〝自分のように生き、働け!〟と求めたことも訴えたこともない。但し何事も、例外を除けば…である。
 たとえ微々たるものでも、給料を貰っている以上、仕事はきちんとするべき…という信念は、自分の中にあるだけでなく、他人からも求められることであった。納得し、承知しているから向き合えたことであって、それが出来ないならきっと反論も反発もしただろう。しかし、そんな融通の利かないところに付け込んで、無理難題を押し付けてくるややこしい人種も居るのである。どういうわけか私は、そういった人達と共に仕事をする機会が多かった。あまりに似たようなタイプの人達と仕事を組まされるので、毎回同じ苦難を強いられる。類は友を呼び、「お前も同じタイプの人間なのだよ。人の振り見て我が振り直しなさい」と、神より試練を賜ったのかと本気で悩んだくらいだ。実際それらが神の試練であったかどうか、私は神ではないのでその御心は計り知れぬが、そういう理解の出来ない輩に出会う度、『こういう人にだけはならないでおこう』と自らを戒め続けたのは事実である。
 一方で、横暴とも思える無理難題の数々に、応えようとしても応えきれず、血の滲む努力をしようが脳みそフル回転で策を練ろうが、自身の力の及ばないことは絶えず起こり、それが無理難題であることも忘れて、自らの力が及ばないという結果ばかりに正面衝突しては、私は自分を責めた。
『応えきれないのは自分の能力が足りないからだ…』と。
 しかしそこで「出来ません、ごめんなさい」と言えないのが私という人である。だって給料、貰っているんですもの。給料貰っといて出来ないとかダメでしょ…と。
 そこでどうしたか…私は、無理難題を押し付けてくる人達が、私に求めることを自分ではどのように対処し、解決しているのか研究することにしたのである。人に求める以上、自分は出来ている筈だ。自分に出来ない事を他人に求める筈がない。自分が出来るからこそ人に求めるのであるから、出来ている人からその技を盗めば良いではないか!その確信を元に、私は昼夜、研究に研究を重ねた。
 その結果、私は無理難題を容易くクリアし、彼等の支持を得て〝出来るヤツ〟として人々に永遠に可愛がられた…というのは夢物語である。
 研究結果はこうであった。
〝人に求める人は、自分ではしない〟
 人に無理難題を押し付ける人間は、人に求めるばかりで自分では決してしないし、しようとしない、むしろ出来ないのである。
 そして彼らは一様にして〝しない、しようとしない、出来ない〟ことに自覚が無い。仮にそれを指摘されでもすれば逆ギレし、権力を振り翳して指摘した者を威圧する。正に〝自分の事は棚に上げ…〟である。しかも天よりもずっと高~い所へ!だ。
 私はしんどかった。自分が出来ないのに、人に偉そうに言うなよ…そんな立場かよ…と。
 口には出さず、出したとしても、年長者である相手に対し、出来る限りの敬意を払いながら、年功序列を弁えた言葉遣いに留意した。
 しつこいようだが、私は誰かの上に立とうと思ったことも考えたことも無い。天と地が引っくり返って、これから、誰かにとって〝目上〟と呼ばれる立場になることがあったとしても…である。
 しかし私は声を大にして言いたい。
「人の上に立とうとするなら、それなりの人間になってからにしろ!」と。出来る限りの敬意を払いつつ、年功序列を弁えた言葉遣いに留意して…と言うなら、もっと別の言い方があるだろうが、それは其々のご想像にお任せするので訳して欲しい。
 人が人の上に立つには、それ相応の説得力が必要である。でなければ誰も付いて来ない。上に立とうとするなら、それぐらいのことは最低限弁えるべきではないか?それが出来なければ、上に立つ資格など無い。勿論、そう思っていても口に出すつもりはないが…。
 人の上に立つのはとても大変なことである。それと同じで、人に指示を与えたり、注意を促したりすることは、とても責任のあることだ。そういう立場になると、自分は失敗出来なくなる。失敗してはいけない気になるのだ。何とストレスフルな状態!プレッシャーにより満身創痍である。そんなしんどい場所に何故立ってみたいと思うのか、私は人の気が知れない。
〝実るほど、首を垂れる稲穂かな〟
 その言葉が座右の銘とも言えるのは、そういった考えが根底にあるからだ。
 人間は間違いも犯せば失敗もする。幾つになってもそれは変わらないし、自信過剰や油断が引き起こすことも稀ではない。百歩譲らなくても、それは仕方がないことである。
 だって人間だもの(by:みつを)。
 口には出さぬが、心では思う。
『言う前に 自分でやって 見せてみな』(五・七・五)
 誰の上にも立ちたくはないが、誰の下にも座っていたくはない。年が上で経験が豊かだから何でも出来てエライわけでもなければ、年が下で経験が浅いから、何も出来なくて能力が無いとも限らない。口に出さずともそういった考え方が、『人の上に立とうとしている』と捉えられるのだとしたら、私はもう、何も言うまい。

 

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