学童を辞めた理由 ②

 書庫の片付けは蓄積されたゴミと埃との戦いでもあった。イベントで使ったのであろう製作物が、修理もされないままぼろぼろの状態であちこちに積み重なっている。いつか何かに使えるかも…と、捨てずにとっておいて行方さえ分からなくなったのであろう数々の空き箱や本の帯、装備本に挟まれてあったのであろうブックカバーの切れ端や広告類。見失えば何の意味もないのに、片付かない部屋がこういった物の積み重ねから生まれることを、幼いうちに実感する家庭環境に育っていた分、対策には慣れている。
 山のような段ボールは古い本だけでなく、今は歴史の産物となった大量の代本板。児童が卒業制作で作ったようで、色とりどりなうえに、思い思いに描かれた絵が華やかだ。児童の作品だから捨ててはいけないのだと判断し、棚の一部に色と大きさを揃えて詰め込んだが、半年後、ブックエンドに再生させる材料にするとかで、別の司書が全て引き取って行った。
 バーコードの付いていない本は、除籍申請をせずに処分して良いと聞き、運動会の練習のせいで、児童が授業に来なくなったのを逆手に取り、一大処分と相成った。
 毎日台車を使って、古書を詰め込んだ段ボールを何往復も運ぶ。書庫はみるみる物が減り、床敷きの絨毯が明るい緑色の姿を現す。一方で資源ごみ倉庫は、運び込まれた段ボールで敷き詰められた。
 時間が出来たお陰で、図書室と書庫の環境整備が一挙に進んだ。短時間に効率よく仕事を進める癖も、この経験によって培われたのかも知れない。年度が終わり、春休みに入った頃、案内表示を作り変えて張り替える最終作業がようやく終わった。
 一万冊近い除籍本の処理に一役買ったのは、毎日のように放課後開館にやって来る4年生だった。
 学校図書館での児童に対する授業という恐怖心を和らげ、業務に忙殺される毎日に癒しをもたらしてくれた子どもたち。
「仕事、手伝いたい!」という申し出に思いっ切り甘えた。
 バーコードを塗りつぶし、除籍印を押す。段ボールの無駄遣いを防ぐため、同じ大きさの本を集めて重ねてもらうだけで、随分仕事が進んだ。いつもペアのSとK。働き者で手を止めないKに対し、Sは処分する本に目移りして作業途中で読書に耽り、しょっちゅう脱線した。それだけ本が好きで仕方がなかったのだろう。同じく図書室の常連で会ったT共々、将来の夢を載せた卒業生の広報誌に、【司書になりたい】と書いていて、心が温かくなるのを感じた。
 一人っ子のTは、大人しくて内向的だったが、家業を営んでいる両親の後を継ぐ気でいたのに、卒業が近付いたある日、飛び込んでくるなりこんなことを言った。
「司書になるにはどんな勉強したら良いん?」
 社会に出て働くまで、最低でも3年以上ある。夢や希望なんてものは、一人の人間の中で永遠に生き続けるものでは無い。視野が広がれば目移りだってするし、もっと素敵なものに出合う可能性だって山のようにある。司書という職業の現実を知れば、目標なんて簡単に手放してしまうかも知れないのだ。それでも、私が今、必死で格闘しながら、しかし遣り甲斐と面白さに突き動かされて邁進している仕事を〝将来の夢〟と形容してくれたことが、何とも言えないくらい嬉しかった。
 卒業式の後、Kが母親と一緒に職員室にやって来た。呼ばれたのは、卒業生にとって脇役でしかない司書だった。普段どんなにちやほやしてもらえても、こういう時、子どもたちは、担任や嘗てお世話になった教員の周りに集う。影響力の差を実感する瞬間でもあった。
 卒業が近付くと忙し過ぎて図書室にやって来る6年生は少ない。Kも例に違わず、卒業のこの日、顔を合わせるのは本当に久しぶりだった。なのにわざわざ挨拶に来てくれたのは、4年生の時、放課後入り浸っては仕事を手伝いながら交わした数々の会話の記憶を、大切に思ってくれているからだと分かった。司書冥利に尽きる。そして、天職を捨てて選んだ仕事が、自分を幸せにしただけでなく、誰かの役に立てたのかも知れない事実に、救われた気がした。
 
 残業から逃れようと足早に校庭へ飛び出すと、最終下校を知らせるチャイムが鳴った後も、だらだらと居残っている児童に出会う。
「先生、ひっさしぶりやな~!」
 見ると、2年生の頃から毎休み時間、図書室にやって来ては、自ら機械操作を覚えて頼まれてもいないのに司書の手伝いを躍起になってやっていたOであった。彼ももう最終学年だが、無邪気で屈託のない様子は変わらなくてホッとする。中には高学年になった途端、敬語を使うようになって、他人行儀さにこちらが慌てたりすることもある。どちらが良いかは受け止める側の感覚だろう。
「これから学童行くん?」歩きながら尋ねる。確かOの家は共働きだった。
「あー、学童もうやめてん。」
 4年生くらいになると辞める子が多いと聞いてはいたが、ここの学童は6年生の子も少なくないはず。「なんで?」と尋ねると、Oは鬱憤晴らすように一気に捲し立てた。
「だってな、学童の先生めっちゃ上から目線やねん。基本命令形!それにな、おやつ、クラスによって違うねんで?他のクラスさぁ、サッポロポテトとか食べてんのに、オレらのクラス、ようかんとか玉子豆腐とかばっかりやねん!ありえへんやろ?なんでオレらばっかこんなおやつやねん!腹立つからやめたった!」
 そういえば以前、子どもが学童の先生に対して物凄く無礼な態度を取っているのを見て、驚いたことがあった。普段大人しい子でさえ、平気で相手の手を振り払ったりする。私が普段見たことのない姿だっただけに、脅威したのを覚えていた。週一回程度の関わりしかない司書に対してでさえ、説教されようとそんな態度をとる子はいない。
 上から目線…基本命令形…。確かにそれは嫌かも知れない。
 私は大人を怖い存在だと感じて育ったが、確かに、傍若無人で子どもの声に耳を傾けることさえせず、偉そうにふんぞり返っている〝先生〟を、好意的な目で見たことはなかった。大人になった今でもそういう大人とは関わりたくない。同じだな…。
 それにしてもおやつが羊羹?玉子豆腐?
 羊羹はまだしも、玉子豆腐って…。
 一体誰の好みが反映されるのか知らないが、最近食べてないな…と思った玉子豆腐。昔好きでよく食べたけど、確か〝おかず〟であって、決して〝おやつ〟ではなかった気がする。Oの真剣な憤りに笑う。
 こういう時間が私の中では、どんどん宝物になっていく。

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