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犬になりたくなかった犬 ファーレイ・モウワット


「初めはたかが血まみれの獲物をもちこんだり見るも残忍な黄色い目の畜生が、と考えていたのに観察するうちに欲望も恐れも、たぶん喜びすらも、わたし自身のそれとたいした相違のない生きものに見えてきたのだった。」


カナダのど田舎に住む少年モウワット(最近の翻訳だとモウェット)さんと多趣味な親父さんと愛犬マットの爆笑物語!?
帯に「爆笑物語!」って書いてあるけど、動物の登場する物語に純粋な「爆笑」はありえないんだね。。。
そう、これは美しいノスタルジーの「悲しい」物語だ。

前回、モウェットさんの「オオカミが語る」を読んでいたく感銘を受けたぼくは、この本を古本屋で見つけた。原書は1957年に書かれたという、ひどく古い本だ、ゆえに動物との関わり方も今となんとなく違う、犬は放し飼いだし、野鳥を撃ったり、野生動物を捕まえて飼ったりしてる。

主として天才鳥猟犬マットの話だけど、動物好きのモウェット少年と二羽のトラフズクとの思い出が印象的だった。
彼ら、野生動物はどうして人間にこうも愛情を示してくれるんだろう。
昔話にもあるように、心を通わせた異種間には必ず悲しい最後が訪れる。
それなのにどうして人は動物と心を通わせたがるんだろう。


「動物をよく知るためには動物のすみかで一緒に暮らすに限るといい、もしそれができなければ次善の策は動物を家につれてきて一緒に暮すことである」

ぼくは思う、動物を飼うということは「悪」なのか?

野生動物とヒトは生きる世界が違う、ゆえに近づき過ぎてはいけない、遠くから見守るだけにとどめるべきだ。

そんな道徳を犯してまで彼らに触れたいのか?
なぜ彼らと一緒に暮らしたいのか?
これは人間特有の一種の病気だと思う。
そしてぼくは病気だ。
ゆえに、動物を飼う時、「どうしてその動物をそばに置きたいのか」をよく考える必要があるんだ。


エキゾチックアニマル(野生動物)を飼うヒトはどうして飼いたいのか。

「所有欲」

残念ながら、それが一番の理由だろう。
珍しくて素敵な生き物を自分だけのものにしたい、自分だけを見てほしい、だ。

「顕示欲」

最近特にこれはひどいと思うけど、誰かに自慢したい、すごいと言われたい。
SNSで大人気のアレだ、「承認欲求」というのかも。

「イイネ!が欲しい」だけなら、家庭の平和のために飼わないほうがいい。
動物は「物」みたいに「イイコ」じゃないから大変なことがわんさか出てくる。臭いし、汚いし、うるさいし、壊すし、暴れるし、逃亡したりもする。
それでも飼うってのが、そういうのがタマラナイ!というマニア(病気)やマゾ(病気)のヒトだ。

「生き物をそばに置きたい」というのは人間の自己中心的なワガママだ。
けれど、そのワガママからはじまった関係に「愛」のようなものが生まれるのはなんでだろう。しかも一方通行じゃない、彼ら(種による)の方も「愛」を表現する。

モウェットさんの捕まえたトラフズクも一緒に暮らすうちにすっかりモウェット少年を大好きになり、学校までついてきたという。
最後の悲しい話は、トラフズクがモウェット一家を自分の家族だと思っていた確たる証拠になるよね。

過去にも他の本でそういう話を読んだけど、カラスやフクロウなんかは飼い主をつがいの相手と見るようになったりする、すると、自分の恋人(飼い主)を守るために他人を攻撃したり、愛の贈り物(グチャグチャの肉片やネズミの死骸)を恋人(飼い主)の口に詰め込んだり、はたまた交尾してきたりもするらしい。

彼らはヒトをどう見ているのか、どうして愛情を感じるのか。
「動物を飼う」ということに関して、「動物虐待」とみなす考えもわかる、でも、動物とヒトの親密な関係に心動かされずにはいられない。

彼らがヒトを愛してくれること、すごく不思議で、ありがたいことだ。
ぼくはヒトをなかなか愛せない、それはぼくがヒトの嫌なところばかりを見てしまうから。
けれど、彼らはきっといいところを見てくれるんだろう。

親にも心開かない自閉症の子がオオカミに触れた時、初めて表情が生まれたなんて話もあるし、アニマルセラピーなんかも今じゃ常識だ。
動物との触れ合いを求める人はやはりどこか病んでいるのかもしれない。
心が病んでいるんだ。

以前、「哲学者とオオカミ」のローランズさんが、彼らと一緒にいる時「善」になれる、みたいなことを言ってたけど、そうなのかもしれない。そう、「優しい気持ち」になれるんだ、オキシトシンが出るんだね。

そうならない人はむしろ動物と一緒にいるべきではないんだろう。

「動物を飼うこと」自体が虐待なのか、「飼い方」によっては虐待なのか。
「飼い方」ひとつとっても考え方が多様すぎて「正しい」飼い方などないのかもしれない。

じゃあ誰も飼うなって話だけど、動物とのコミュニケーションがなくなった人類はいよいよ危険に思える。
かけてもいいけど、今、動物の地位を向上させている人みんなが何かしら動物を「飼ったこと」のある人だろう。「飼ったこと」があるからこそ、その動物を思いやることができる。

異種であっても家族として一緒に生きることで絆が生まれる、それが「愛」と呼ぶものだろう、そうしてわかりあうことで、偏見が消える。
簡単なところで、人種の問題だってそうだ、色や言語が違うだけで「異物」だと思うけど、一緒に笑い合えば絆なんて簡単にできたりする、そうなると、簡単に殺せなくなる。


モウェットさんとローレンツは似てる。動物行動学の創始者であるコンラート・ローレンツはぼくの憧れのおじさんだ。
この本もローレンツの「人イヌにあう」を思い出させる。


しかもだ、ぼく、全然盲点だったけど、モウェットさんさ、フォッシーの伝記書いてるんだね!
ああ、「狼は語る」読んだ時からモウェットさんが好きだったけど、モウェットさんもフォッシーに恋しちゃってたとはね!
ヤーわかるよ、強烈な女性だものね!ゴリラの女神さまだもの!彼女がいなかったら、マウンテンゴリラは絶滅してたよ。。。

モウェットさんが書いたフォッシーの伝記「WOMAN IN THE MISTS」、ぼくみたいな英語が読めない中年のために翻訳されればいいのになあ、と思う。




どうして、その動物と一緒にいたいのか?
彼といると、ぼくが「善」であれるから。



「恐るべき戦闘力はもっていたが、ウォルは決して侵略者ではなかった。同じ動物でも人間は文明が進むとともに、無意味な自然の血を流させる欲望を抑えきれないが、ウォルは強力な武器を自衛のためか、または腹を満たすためには使うが、殺戮を楽しむためには絶対につかわないからである。ウォルには道徳的とか論理的な考えはなくーーーただ殺戮のための殺戮はしても喜びにはならない、という議論をこえた真実があるに過ぎない。」


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