甘い汗

 にわか雨がやむと蝉の大合唱が再演されはじめた。車を降りると猛烈な蒸し暑さが体にまとわりつく。汗かきのあたしにとっては地獄そのものだ。
 荷物を降ろすだけで首すじに汗が流れる。ポニーテールを結び直し、タオルでそれを拭う。
 台車を押しながら立派な門をくぐると手入れの行き届いた庭と噴水が出迎えた。丘に佇む洋館の敷地は広い。
 午前中の配送はこの屋敷が最後になるようにルートを決めている。丘にある東屋で景色を眺めながら休憩をとることが最近の楽しみだからだ。そしてもうひとつ理由があった。
 チャイムを鳴らすと「少しお待ちください」といつものように応答があった。インターホン越しにも品の良さを感じさせる声が心地よい。
 扉が開くと和服姿の奥さんが出迎えてくれた。
「暑い中ご苦労さま」
 結い上げられた黒髪に細い首すじが色っぽい。白い肌にすうっと筆で描いたような切れ長の目と整った鼻筋。美人画から抜けだしてきたと言われても驚かない。その艶やかさにいつも密かに見惚れていた。
 荷物を中に運び入れるとき、顎から汗が滴り落ちて荷物を濡らしそうになる。慌てて右肩を上げてそれを拭うと、むわりとした汗臭さが鼻につく。
 この匂いが目の前の美しい人を不快にさせないようにと心の中で祈った。
「あら、すごい汗。相原さん、もしよかったら中で冷たいものでも一緒にいかが?」
「えっ、あたし、服も汚れてますし」
 突然の申し出に体がカッと熱くなり、汗が吹き出るのを抑えられない。
「遠慮しないで。このあとはそこの東屋で休憩されるんでしょう? だったら、うちで涼んでいってちょうだい」
「ご存知でしたか?」
「ええ。あの東屋はうちの敷地内のものなの」
「そうだったんですか! すみません。公共の施設かと思って勝手に休んでいました」
「あなたなら構わないわよ。さあ、中へどうぞ」

 屋敷の中に入るとその豪華さに圧倒される。煌めくシャンデリアに大きな壺や絵画、鮮やかに飾りつけられた花たち。中央にある立派な階段はまるで高級なホテルのようだ。
 泥にまみれた靴が、きっと大理石であろう床を汚すのが心苦しい。
 奥さんに案内される途中、メイド服を着た女性たちとすれ違う。会釈をされたが、その顔はみな無表情だった。もしかしたら屋敷を汚したあたしのことを怒っているのかもしれない。

「そちらにおかけになって。すぐに用意しますから」
 とおされたのはバーのような洒落た造りの部屋だった。高そうなウイスキーボトルが並ぶ棚には、奥さんと旦那さんらしき精悍な顔つきの男性が微笑み合う写真が飾られている。幸せそうな二人の姿にあてられて、少しだけため息が漏れてしまう。
 カウンターの中に入った彼女は、この場所には不釣り合いなものを取り出した。
「かき氷機ですか?」
「そう。懐かしくなって買ったんだけど、ずっと使ってなかったの。だって、ひとりで食べてもおいしくないでしょう? だから一緒に食べてくださる?」
「旦那さんは?」と言いそうになるのを既の所で飲みこむ。気にはなったが詮索はできない。寂しそうな微笑みに胸が痛む。ほんの一時だけでも楽しんでもらえたら。
「あたしでよければ、ぜひ」
 奥さんは少女のように瞳を輝かせた。

「シロップはいちご味とメロン味とどちらがいいかしら?」
 うまく器に盛れないと嘆く奥さんに代わって氷を削る。こんもりとなった白い山を目にして、奥さんは弾んだ声で尋ねてきた。
「いちご味でお願いします」
「それじゃ、私はメロン味にするわね」
 真っ白な雪山が鮮やかに色づく。子どもの頃から好きな色に染められるこの瞬間が好きだった。
「どうぞ召し上がれ。と言っても、相原さんが削ってくれたのだけど。私ってだめね。氷もうまく削れないなんて」
 奥さんは恥ずかしそうに目を伏せる。年上の彼女が見せる可愛らしい一面に胸のときめきが止まらない。
 かき氷を食べるとひんやりとした甘さが広がり少し落ち着く。
「冷たくておいしいです」
「子どもの頃、よく母が作ってくれたことを思い出したわ。相原さんのおかげよ。ありがとう」
「いえ、そんな……」
 潤んだ瞳でまっすぐに見つめられる。気恥ずかしさから思わず目を逸らしてしまう。ごまかすように氷をかきこむとキンと頭が痛くなった。
「そうだ。相原さん、練乳はお好き? 私、かき氷には練乳をかけるのが大好きだったの。かけてもいいかしら?」
「はい。あたしも好きなので」
「じゃあ、たっぷりかけましょうね」
 チューブから押し出された練乳がかき氷に降り注ぐ。手元が狂ったのか、たらたらとあたしの指にまで練乳がかかってしまう。
「ごめんなさい! やだ、私ったら」
 奥さんは慌てたようにあたしの人差し指を手にとると、そのまま口に含んだ。
 柔らかくぬるりとした肉の感触。あたしの全神経が指先に集中する。舌先でちろちろと舐めとられるだけで思わず声がでそうになる。練乳がおいしいのか、奥さんはうっとりした表情だ。熱いうねりは指紋の溝までも味わうように絡みつく。そのねっとりとした動きにお腹の奥がじゅんとたぎる。
 もっと舐めてほしいと思ったのもつかの間、チュッと小さな音をたてて唇が離れる。人差し指が奥さんの唾液でぬらぬらと濡れて光り、あたしを誘う。練乳よりも甘そうなそれを舐めたい衝動に必死で抗う。
「相原さんにお願いがあるの」
 耳に口づけるくらい近くで奥さんが囁く。背中がゾクゾクとなり、思わず肩をすくめてしまう。
 あたしの首すじにつたう汗を彼女が指先でそっと拭う。触れられた場所から蜜のような毒がめぐり、じわりと痺れる。
「モデルになってくれないかしら」
 声も出せずに頷くと彼女は満足そうに笑い、あたしの手を握る。
「それじゃ、あちらの部屋で裸になりましょうね」

 三日後、モデルになったものが完成したと連絡があった。電話越しに感じる奥さんの声が耳をなでる。それだけで、あたしはおかしいくらいに高揚してしまう。
 屋敷を訪れると、咲き誇るような笑顔で彼女が出迎えてくれた。
「せっかくお休みの日なのに呼び出してごめんなさいね。わざわざこんなおばさんのところに来てくれて嬉しいわ」
「いえ……。お会いしたかったです」
 どれだけ会いたかったことか。口下手なあたしはうまく言葉にできない。そんな心を見透かしたように、彼女がしなやかな指をあたしの右手に絡めてくる。
 恋人のような繋ぎかたに胸が高鳴る。まわりの視線が気になったが、メイドたちは気にもとめないかのように無表情だった。

 あの日、奥さんは裸のあたしにいっさい触れてこなかった。
 旦那は外に愛人と子どもを作り帰ってこない。けれど、自分は家督を守るため不貞をすることはできない。せめて好意をよせるあたしそっくりな人形を作りたいのだ、と声を震わせ懇願された。抱きしめることは許されないが、そのせつない想いに応えたかった。
 それなのに3Dスキャナーで全身のデータをとる間、触れてほしくてたまらなかった。彼女に見られていただけで、太ももからつたい落ちるほどに濡れていた。奥さんの清廉さに比べ、自分の浅ましさが恥ずかしかった。

「入って。きっと感動するわ」
 屋敷の奥まった場所にある部屋の扉をそっとあける。カーテンはしめられていて、中は薄暗かった。ベッドに腰掛ける人影が目につく。カーテンの隙間から光が差し込むと薄く照らされたその顔が明らかになる。
 あたしだ。無表情に前を向いて、メイド服を着たあたしが座っていた。
「どう? そっくりでしょう」
 ベッドサイドのライトをつけながら、奥さんは愛おしそうに人形の頬をなでた。
「驚きました。本当に人間みたい」
「実はね、屋敷にいるメイドはすべてこの子と同じロボットなのよ。ほら、質感がとにかく素晴らしいの」
 奥さんが人形の手をそっと取る。そうしてあたしの手のひらに重ねる。
 ひやりとする感触。あたしの体温を奪い、それは静かに脈打つようだ。
 どこから取り出したのだろう。奥さんは練乳チューブを手に取ると人形の右手にとろりとかけていく。まるであの日の再現のように舌を伸ばし、練乳を舐めとった。舌が動くたび、濃密な空気が充満する。この溶けそうなくらいに甘い香りは練乳だろうか、それとも彼女の唾液だろうか。
 自分が舐められているわけでもないのに、身体が熱を帯びてジュクジュクと湿度が上がる。部屋に響く水音に呼ばれ、蘇るのはあの日の感触。
 手のひらの生命線をなぞるように練乳が垂れていく。それを追う舌は脱線や逆走を繰り返し、あたしを焦らす。待ちきれず、彼女の舌を模倣して手のひらを指でなぞるとなにかが溢れそうになる。
「……んっ……はぁっ」
 それはあたしの口から声として漏れていく。奥さんに気づかれぬよう瞼を閉じて身体の疼きを耐え忍ぶ。
 ちゅぷという音に再び目を開けるといつの間にか人形の首すじを汗のように練乳が流れていた。その上をナメクジのように舌が這っていく。
 ちろりとのぞく、やけに赤い舌。そこから目が離せない。
「甘い汗ね」
 人形の耳に囁く声はあたしをも解放する。舌先が差し込まれたところで意識は白濁とし、甘美なところへと昇りつめた。

 あれから屋敷への荷物の配送はなく、日々は空虚にすぎた。ひとりでかき氷を食べても、ただ冷えきるだけだった。
 あの熱を求めて、自ら練乳をかけて慰める。今ごろ奥さんは、あたしそっくりの人形と絡まり、練乳を舐めているのだと想像しながら。
 秘事を終えた東屋を出ると、別の配送会社の車が屋敷に停まっているのが見えた。配達員が中へと誘われる。あれはあの日のあたしだろうか。再び練乳がほしくなり、指にかけてねっとりと舐めた。
 

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