ポン・ジュノ『パラサイト』の構造について

少し前にポン・ジュノ監督作『パラサイト』を観た。

思ったことをいくつか断章にして書いてみる。なお、具体的なネタバレはしない。なるべく抽象的・構造的な話にする。


・距離について

この作品では距離が映されている。作中のAとBには距離がある。

つまり遠い。

距離感を表現する方法として、長い移動が映される。この作品のなかでも長めに移動のシーンがある。それもいくつかの場所が映されて、結果として「これらの場所を通ってきたのだな」とわかる。

AからBまでの距離が遠いことで、AとBがかなり場所として差がある空間として構造化されている。

・上昇と降下について

距離的な構造化と併せて、高度でも構造化されている。前記の移動では、単に移動するだけではなく降ってゆく。降るということで来た場所(A)と向かう場所(B)が高度でも構造化されている。

もちろん、観た人はわかると思うが、作品の中心部分ではさらに明確な上下の構造化がなされている。しかも「中間」という層によって「上/中/下」の構造となる(この点の話題は具体的に後日書きたい)。

・流動体について

構造化というのは、渾然としている対象に区別をつけることである。そのため、AとBを構造化しただけでは「良い・悪い」など意味は与えられない。

ただ、ある要素がAとBに与えられる。この「ある要素」はAでは大した影響はない。むしろ喜ばれたりもする。Bでは大きな被害をもたらす。

この両者の差は距離と高度の差異がもたらしている。ここで明確にAが上位、Bが下位と表現され、そうすることで空間的位置と階級が一致する。

「ある要素」は固体ではなく、流動体である。この作品はスクリーンで観てすぐわかるようなレベルで構造化をしてみせる。つまり、「壁」や「差」を見せつける。だが、構造を越えてゆくのが流動性をもつ要素である。

流動体はAとBとに等しくやってくる。その意味で領域横断的である。

流動体は一度観たかぎりで二つのものが重要だ。
一つは先に書いたもの。これはAとBの受け止め方の違いを表現する。つまり、両方に等しく与えられたものによって差異を示す要素となる。

二つめの流動体は視覚的ではない。Aの人間がBの人間の有する「それ」を感じる。これがAとBの間に軋轢をもたらす。

・移動について

ようは流動体は作品のなかで構造化されたもの同士に行動を促して、物語を進行させる。だが、それらは大きな影響を与えることはない。

たとえば、流動体によって引き起こされた軋轢は単なるトラブルである。AとBとの衝突なのだが、これが起きたところで構造に変化はない。A/Bという線引き自体は相変わらずにある。

その象徴は移動性である。Bの人間はAでもBでも移動できるが、その構造内でしか移動できないし、最終的にBに戻るという制約がある。だが、Aは意思次第でA/Bという構造の外に行ける。Aの人間が頻繁に外に移動するのだが、その瞬間を狙って構造の内側でしか移動のできないBの人間はAに流入してくる。

・最後に二つのシーンについて

上記で書いたことはAとBの二分法で空間と価値が構造化されているというだけのことだ。

各々の空間や価値を見事に示したワンシーンがある。「どこで落ち着いているか」だ、このシーンは作中でも多様される「象徴的」という言葉がふさわしい画になっている。喫煙、飲酒、音楽など、落ち着いている状況がその人間の生きている環境や感性、文化資本を表している。

あたりまえだが、慣れない場所ではなかなか落ち着けないし上手く行動できない。

どこで落ち着いているのか

落ち着いていても「間違え」ていないか、

逆にどこで落ち着けていないのか。

登場人物のふるまいで構造化されたA/Bは象徴的に表現されている。

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