上野千鶴子氏座談会のセックスワーカー差別炎上とかがみよかがみコミュニティの雰囲気について(下)

前置き

(上)では、上野千鶴子氏の座談会記事に関わって多くの人の尊厳を傷つけたことへの反省と悔恨の意、『かがみよかがみ』編集部による対応の批判について書きました。

(中)では、『セックスワーク・スタディーズ』を読んで考えたことが主になっています。先に前の記事に目を通してくださるとありがたいです。

(下)では、『かがみよかがみ』に対しての批判を書いていきます。

文中で引用しているnote、モーメントの掲載の許可はいただいています。

ここでは『かがみよかがみ』に掲載された、投稿者からのエッセイ一つ一つを取り上げることはしません。

問題点や批判など、指摘してくださると嬉しいです。多くの方のご意見をお聞きしたいと思っています。

なお、ここからは常体で書かせていただきます。

『かがみよかがみ』は批判が想定されていない”メディア”

正しい・正しくないを抜きに、「私」が感じた違和感を大事にしてほしい。そのために、「女性は~」「社会は~」ではなく、「私」で語る場をつくりたかった。違和感やもやもやを言語化して、「私だけじゃなかったんだ」「それを言いたかった!」という読み手の子たちと手を取り合いたい。社会のためじゃなくて、私の生きやすさのために。それが結果として、より良い社会につながるはずだと私は思っています。
安心して話せる場所を、つくりたい 「かがみよかがみ」はそのために何ができるか。安心して自分の気持ちを話せる場所をつくることなのかなと思っています。他人も自分も批判しない、自虐しない。そんな場所を。

『かがみよかがみ』の伊藤あかり編集長による、「私」の違和感が社会を動かす力になる。ぶちかましていこう!という編集部コラムからの引用である。

私はこれを読んだ時、伊藤編集長があらゆる批判に応じないのもわかる、といっそ清々しささえ覚える形で納得してしまった。「セーファープレイス」を構築しようとして、内部を守っているのではないかと思った。

しかし、『かがみよかがみ』は、

「私のコンプレックスを私のアドバンテージにする」をコンセプトに女性の自己肯定感の爆上げを目指すメディアです。@kagami4officialから引用

と明記されているウェブメディアだ。サイト投稿者である「かがみすと」や、サイト運営のボランティアである「ミラリスト」同士の交流があることから、サークル活動のような側面もあるが、外部に開かれた「メディア」であることは間違いない。『かがみよかがみ』は、シェルターでも、サークル活動でもないのだ。

文章に評価を与えるのは「他者」

確かに、『かがみよかがみ』にはコンプレックスをテーマとした痛みや傷つきのエッセイが集まる。素人の文章と直接人格がつながっている表現物が掲載されていることからして、安全な場所を与えたいという気持ちも理解できる。

だが、いくら自己内省を綴った日記めいた文章だとしても、一度世に出た以上、社会に接した存在としてみなされるのは必至だ。

もう、自分の評価を他人にゆだねるのはやめよう。
他人と比べて卑下したり、嫉妬したりするのをやめよう。

これは、「かがみよかがみ」に込めた思い 編集長メッセージからの抜粋である。

この自分の内面に蹴りをつける意思表明に真っ向から反対することはできない。私も散々自分語りを書いてきた。表現を通して自己整理することの効用や、その過程が「誰か」に力を与えることを身を以て知っている。だがここで問題なのは、開かれた表現である文章を評価するのは、他者、つまり第三者である他人だということだ。

そもそも批判がないものとして存在している『かがみよかがみ』の利用者は、このことをわかっているのだろうか。安心して言葉を紡ぐことができる完璧に安全な場所は、日記しかない。わざわざ朝日新聞が運営するメディアに投稿することの意味を考えたことがあるだろうか。noteではダメですか。ブログではダメですか?

冷徹なようだが、魂を込めて書いた文章だなんて、思い入れがあるかなんて、読む人にとってはどうでもいい情報だ。自分語りのための自分語りではなく、表現したいツールとしての自分語りという、社会に接続された文章をもっと増やさないといけないんじゃないか、とはたから見ていて思う。

”表現することには、時に嵐のような他人の言葉が突き刺さる”

「私は私である」という自己肯定を否定することは誰にもできないが、一度それが”表現”となった瞬間から、それは社会性を帯びたものとなる。当然、共感、反感、批評、様々な意見が発生するだろう。そこから気持ちのいい”共感”のみで繋がろうとしている危険性については、愛がデカい(@ilovemoviesand)氏の朝日新聞運営メディア「かがみよかがみ」に対する批判(其の二)に詳しいのでここでは触れない。

炎上後、かしだな氏(現在の名前はidanamiki氏@seikatsukashida)のnote「自分について”書く”ことと、”書かせる”ことのあいだで考えたいこと」に大きく影響を受けた。特にアンカーのように私の中で引っかかっている言葉が以下である。

”あらゆる表現には、批評、あるいは批判が必要である”こと、”表現することには、時に嵐のような他人の言葉が突き刺さる”のだということ、そして、”その地平に誰かを連れ出すということは、とても慎重にやらねばいけないことである”ということを、丁寧に、言葉を選んで、提言してくれた。(かしだな氏のnoteから引用)

『かがみよかがみ』というメディアの運営を慎重にやらねばいけないということは、伊藤編集長も考えているのだと思う。安心して自分の気持ちを話せる場所を作りたいという思いからそれはわかる。

ただ、外部からの批判はまだしも、『かがみよかがみ』に深く関わっているユーザーのニーナ氏(@kichiko_ko_ke)がまとめてくれた内部批判も公式には無視している態度を私は問題だと思っているし、何よりも同質な仲間以外の他者が想定されていないことが恐ろしい。

メディアとしても、シェルターとしても危うい

書くという行為の中身が「自分」で充足してしまうことは、今まさにそこに存在する明確な他者に対するまなざしを失う危険性がある。(かしだな氏のnoteから引用)

とかしだな氏が指摘するように、『かがみよかがみ』には「批判してくる他者」の存在が薄い。というか、完全に無視している。SWASHの要氏(@kanameyukiko)の呼びかけも黙殺している。

メディアとしての危うさは言わずもがなである。

だが、シェルター、つまりコミュニティとしての機能に対しても突っ込みポイントが山ほどあるように思える。「女性の自己肯定感爆上げ」が目的とされているが、性自認が女性も対象に含む、と書き添えた方が良いのではないか。そこに違和感を覚えたことからコミュニティとしての問題点にまで思い至った。(『かがみよかがみ』の対象はシス女性に限定するとは明記していないし、性自認が女性の方も”大丈夫”ですよ、と書くべきという私の提案がそもそもマジョリティ側に立っているという指摘を受けた。論点がずれてしまうのでここではその問題について触れないが、書き添えておく。)

内面の吐露をした記事によって繋がった人間関係は濃密だ。その濃いコミュニティに、『かがみよかがみ』の中で想定されなかった多様性に弾き出された人間は入っていけず、居心地の悪さを味わうだろう。『かがみよかがみ』は「同じ悩みを持つあの子」以外とのコミュニケーションが取れないからだ。

自分の気持ちを表現できるようになって、自分のことを好きになろう。
あなたの言葉が、あなたの心へ、同じ悩みをもつあの子へ、届きますように。
あなただけのおまじないを見つけられる場所になりますように。

「かがみよかがみ」に込めた思い 編集長メッセージからの引用である。

共感によって「自己肯定感爆上げ」のために褒め合うのが目的であり、違いを知り、認め合うためではないのだ。

他者が入ってこないコミュニティには変化が生まれない。価値観をアップデートする機会もない。ぬるま湯の中で思考停止した集団になりかねないと思っている。

『かがみよかがみ』を必要としている利用者はいる。それはわかっている。私も、エッセイを投稿した後の”共感”と”褒め合い”によって自信がついた一人であることは変えようがない事実である。その価値を認めていても、『かがみよかがみ』の未来に不穏さを感じてしまう。

仲間内で閉じた他者不在の交換日記

結びが「傷だらけのわたしを抱きしめてありのまま愛したい」。『かがみよかがみ』に投稿されるエッセイの典型的なパターンだ。自分自身もありのまま文法をかまして投稿したことがあるからこそ、なんか同じような記事があったな、という既視感を覚える。

かなり意識して露悪的に書いたが、私には投稿者たちの思考回路と属性がほぼ同じに見える。それ以外の人もいることは知っているが、フェミニズムに関心を持つ、ある程度恵まれているが世の中になんとなく違和感を持っているちょっとこじらせた20代のシスヘテロ女性なんだろうなあ、とうがった見方をしているのが私の現状だ。

似たものが集まってくるのはwebメディアの特性なのかもしれない。でも、正直なところメディア自体に食傷気味で、「コンプレックスをアドバンテージにする」というコンセプトに寄せすぎな感じを受ける。

自分の言っていることがとても暴力的であることは自覚している。投稿者たちの生の声をパラパラと流し読みして消費し、「全部似てる。金太郎飴みたいで飽きたな」と言っていることに他ならない。

だが、私の居場所はもうこのメディアにはなく、いわば『かがみよかがみ』にとっての他者としての私には、「仲間内で閉じた他者不在の交換日記」のように見える。

その背後には、朝日新聞という権威がいる。マスメディア、そしてアカデミズムとつながっているように読者は受け取るだろう。内部事情を知らないからだ。

搾取されている女性の傷つきを集めてさらにコンテンツとして消費し、「ミラリスト」というボランティアとして搾取している。そしてそのコンテンツに対しての私の感想が「金太郎飴のようだ」であることを思うと、不気味さ、やりきれなさ、編集部への怒りがこみ上げてくる。

自分の身辺だけのフェミニズム

『かがみよかがみ』は、メディアであると同時にコミュニティの側面も強く、その二つが中途半端に混ざり合っている。そこに批判がなくなった時、立ち現れるのは「自分の欲望第一の幸せになるためだけのフェミニズム」なのではないだろうか。

自己肯定感爆上げは結構であるが、自分という存在は社会と切っても切り離せない関係にあることをわかっているのだろうか。肯定することは大事だ。しかし、社会の構造の中に生きている自分、加害者になりかねない自分、特権性を持つ自分。そのような目を背けてはいけないセンシティブな事項が「私は私!最高!以上!」というありのまま信仰のわかりやすく煌びやかな光の裏に確かに存在することもまた、直視しなければならないと思う。

フェミニズムの勉強は、私にとって苦しいことだ。社会構造に怒り、自己矛盾に葛藤し、被害者としての自分だけではなく、差別もしかねない自分を見つめ、補完しあうことが大切だ。フェミニズムを利用し、自己正当化の道具に使わないためにも、その姿勢は不可欠なのではないだろうか。

まとめ

ここまでの私の主張をまとめる。マイノリティという当事者性や傷つきの記憶を頼りにして自分語りを書き進めるのは同類の共感と連帯を得やすく、肯定されるというカタルシスまで手に入る。しかし、自分のアイデンティティがそこに固まる上に、個人的なことのみが政治的であるというように、他人の痛みに目が行かなくなる恐れがあると思うようになった。視野狭窄に陥る。

『かがみよかがみ』を批判している自分のずるさ

ここまでメディア・コミュニティとしての『かがみよかがみ』を痛烈に批判してきたのだが、自分の欺瞞にも気付いている。

私は『かがみよかがみ』に投稿して、「朝日新聞」のメディアに載ったこと、自分の記事が読まれ、共感され、褒められたことが全部とても嬉しかった。コミュニティも、昔の自分にとっては居心地の良い空間だった。そこで人脈を作り、知識、実力をつけ、自分が前の自分よりも上の段階に行ったから欠陥が見えた、それだけの話なのかもしれないからだ。その実力には、きっと『かがみよかがみ』に違和感を持つ能力も含まれている。

啓蒙するような文章になってしまったことに対して、申し訳なさも感じている。私が絆創膏と相談室を奪う権利はないし、私が考える「正しいフェミニズム」の押し付けになってしまうのではないかとも思った。

ジェンダーについて書いている有名な男性ライターに「教養のあるフェミニストはあのメディアなんて相手にしていない」と言われたことがある。それと同じことを、私は今しているのではないか。

フェミニズムは学問だ。しかし、”教養のある”学者とインテリのためだけのものではない。門戸を広げてハードルを下げた大衆化の結果が『かがみよかがみ』の自己肯定感のみ爆上げフェミニストなのであれば、それもまた認めなければならないのではないか、とも思う。

知識がないと傷つける場合がある、それもまた揺るがない事実なのは私が身を以て証明できる。でも、「知識がない、勉強しろ!お前らは私が思うフェミニストのレベルに達していない!」と上から目線でマウンティングするのも間違っている。

でもこれだけは主張しておきたい。「書く」という行為は社会と切っても切り離せないことだ。私にはその覚悟が足りなかったかもしれない。私だけの責任ではないにしても、その思慮のなさが招いた結果だと思っている。

謝罪、そしてけじめと決別のためにこの一連の文章を書いた。もうこのような事態を起こさないためにも、『かがみよかがみ』関係者の目にとまったら幸いである。今後も思索を重ね、表現を続けていきたいと思っている。



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