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ズッキーニとキュウリ

 風鈴と風がじゃれあっている。ちりんちりんと、笑っている。その音を聞きながら、私は台所で野菜を洗っている。
「ズッキーニとキュウリって、似てるね」
 突然、背後から文也の声が聞こえて、私はズッキーニをシンクの中に落としてしまった。振り返って、声の主を見た。
「あぁ、びっくりした。おかえりなさい」
 蛇口から勢いよく流れる水が、驚かされた私の心臓みたいに、シンクの中で飛び跳ねる。
「似てるけど、ズッキーニはウリ科でカボチャの仲間よ」
 文也は「知ってるよ」と笑って、私の横に立ち、まな板の上に置いてある野菜を手に取った。トマト、ピーマン、なす、色の濃い野菜をひとつひとつ手に取って、じっくりと眺めている。
 その横顔を、私はまた野菜を洗いながらそっと見つめた。
「ラタトゥイユ、作るの?」
 文也がちょっと首を傾げて訊く。
「うん。好きでしょ?」

 古い一軒家は、私と文也が結婚したときに中古で買った。縁側のある家に二人とも憧れていたので、駅前に建つ使い勝手の良いマンションが同じ価格で買えるのに、昭和のアニメに出てきそうな、畳の部屋がある古くて小さな家を買った。
「トトロの家に、似てるね」
「あの家はもっと大きいんじゃない?」
 引っ越した日にそう言って、二人で小さな庭を見つめた。縁側からは庭と空が見えて、夏の雲が短時間でカタチを変えていた。
 私たちもきっとここで家族のカタチを変えていくのだと、そのとき思った。例えば、子供ができて、大きな丸になったり。

 家が鳴ることを知ったのは、ここに引っ越してきてからだ。
 ミシッギシッと家のどこかから軋むような音が聞こえるのを初めて聞いた夜中、私は隣で眠る文也の肩を揺すって起こした。
「ねぇ、変な音がするんだけど」
 和室に敷いた布団の上で、二人で耳を澄ませた。ミシッギシッ。
「あぁ、家鳴りだ。木造住宅だからね。湿気や温度で木が収縮して音が出るんだ。自然なことだよ」
 文也の説明で、私は肩の力を抜いた。
「でも、気味悪いわね」
 切り倒されて建材となった、動くはずのない木が、音を立てる。呼吸する生き物の肺のように、大きく膨らんだり縮んだりする様子が脳裏に浮かんだ。
「幽霊の足音に、似てるね」
 文也がささやくように言った。
「もう、やめて。幽霊の足音なんて、聞いたことないくせに。それに、幽霊は足がないでしょ」
 文也は布団の中で私を抱きしめた。
「足、絶対にあるよ。僕が幽霊になるときは、絶対に足音を立てるよ」
「もう、やぁねぇ。春の足音って言うみたいに、実際には聞こえないけど、感じる足音ってあるじゃない? 幽霊はきっとそっち。感じる足音よ」
「いや、僕が幽霊なら、聞こえる足音にする」
 二人で笑った。
 そう、聞こえないけど感じられる足音はある、と私は思う。例えば、不幸の足音だったり。

 北向きの薄暗い台所でラタトゥイユを煮込みながら、私は背中で文也の気配を探る。
 台所の南側には和室があって、その向こうに縁側がある。小さな庭もある。
 今、文也は縁側に立ったまま、庭を眺めているはずだ。庭の中央にあるしだれ梅は、青々とした葉をつけているが、葉は暑さでうつむいている。文也は立ったまま、その木を眺めているはずだ。
 私が台所で立てる音を、文也が背中で聞いているのも、私は知っている。
 だから、できるだけ陽気な音が出るように野菜を切る。リズミカルにだんだん大きく。鍋のフタの隙間からもれる蒸気の音、包丁とまな板が立てる音、私の足音、台所を賑やかな音でいっぱいにする。陽気なひとときにするために。   
 オーブンからは鶏肉の焼ける匂いがして、私は温かくなった胸にそれを吸い込んだ。

 出来上がった料理を和室に運んだ。南フランスの献立だろうがなんだろうが、私たちは結婚したときから、和室に座って丸い座卓で食べていた。
 ランチョンマットの上に料理を並べて、ワインも開けた。
「久しぶりのワインね」
 私は貯めていたことを、いっきに話す。ナイフで肉を切りながら、ワイングラスを片手に持ちながら、文也を見つめながら、忙しく話した。
 隣の家から聞こえる夫婦喧嘩の話。友達が産んだ赤ちゃんの話。買い物途中で出会う犬の話。どれもとりたてて面白くもなんともないと私自身が分かっている話。
「へぇ、それで、それで?」
 文也はいつも聞き役で、上手い具合に相槌を打つ。だから私は気持ち良くなって、ワインのおかわりまでして話し続けた。
 私は、初めてのデートについて語り始める。映画を観てから食事をしたあの日。
「あのときもラタトゥイユ食べたよね。覚えてる?」
 文也が「もちろん」と目を細める。
「ズッキーニとキュウリって、似てるね」
 あの日も、文也がそう言った。
「ずっと、こんなふうに向き合って、ご飯食べたいね」
 確かにそう言った。

 文也の前の料理は減らない。
 頷いたり笑ったり相槌を打ったりするのに、用意したラタトゥイユも肉もガーリックブレッドも、手つかずのままだ。料理の上の湯気がだんだんと消えていく。
 向き合って、文也の顔だけ見ようとしても、座卓の上の減らない食べ物が視界に入る。
 ため息をつきそうになって顔を背けると、部屋の隅にある仏壇が目に入って、私は吐こうとした息を飲み込んだ。
 私が黙ると、待機していた静けさが、陣取りゲームの勝者のように堂々と空間を占領する。しんとした静けさが居座る。部屋の中がしんと薄暗くなったと同時に、外の蝉が一斉に鳴き始めたように感じた。風鈴が寂しそうにちりんと笑う。
 私はラップを台所に取りに入って、お皿の料理を覆った。こぼさないように気をつけながらそろそろと歩いて、和室の隅に持っていった。仏壇の前にある小さな台の上に、すべての料理を移動した。  
 減っていない冷めた料理を、供える。
「ねぇ、あなたにとって都合の良い場所はどこ?仏壇の前? お墓?」
 仏壇の写真の中で、文也が笑っている。

 写真の中の文也を見つめていると、家のどこかで、ギシッと音がした。家鳴りだ。
 いや、あれは、文也が階段を上がる音だ。ゆっくりと階段を踏みしめる音だ。私はまた耳をすます。気配を探る。
「家鳴りと足音、ちょっと似てるね」
 私は写真の中の文也に言ってみた。
「ズッキーニとキュウリみたいに、似てるね」
 
 庭に目をやると、枝垂れ梅の木の下で、数時間前に私が燃やした麻の茎(おがら)が、黒く煤けているのが見える。迎え火の煙は空に届いた。
 夏の空が暮れてゆく。雲がカタチを変え、大きな丸にはならずに、消えてゆく。どこかに消えてゆく。
 ミシッギシッ。また木が軋むような、踏みしめられたような音がする。
 私は、白ワインを飲みながら、二階に上がった文也の気配を探る。文也は本棚の前に座って、文庫本を読み始めただろうか? それとも、裸になってベッドに入っただろうか?
「おーい」
 私を呼ぶ声が二階うえから聞こえる。
 私は黙ったまま頷く。そうね、そろそろ行くね。ワインを飲み終わったら、行くね。
 あなたが待つ、上へ。



久しぶりに参加させていただきます。


 

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