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球体の動物園④ いそげスローロリス

「あぁ、あんた見てたら、イライラする。いいわよ、私がする」
 莉奈ちゃんはそう言って、私の手からカップ麺の空の容器を奪い取った。
「食べたらすぐに片付けてくださいって、私、言いましたよね。いつまでもテーブルの上にあるカップ麺の容器を見てると、私の方がイライラするんです」
 私は莉奈ちゃんを睨みつけた。
「あんたって、動くのはのろいくせに、怒ったら早口になるんだね」
 睨み返された。
「莉奈ちゃん、容器の中の汁はキッチンのシンクに流してから、ゴミ箱に捨てて下さい」
「あーあー、はいはい、あぁ、スローロリスなんかと同居するんじゃなかった」
 莉奈ちゃんは、ドタドタと音を立てて歩き、キッチンに行って、容器に残った汁を放り投げるように捨てた。
 私は、マグカップをふたつ、そっとテーブルに置く。反抗期の子供のように、またドタドタと音を立ててテーブルの前に戻ってきた莉奈ちゃんは、どたっとまた音を立ててテーブルの前に座り、マグカップに口をつけた。
「ぬるっ。なに、この珈琲、ぬるいんだけど。ロリスちゃん、あんた、どれだけ時間かけて珈琲淹れたの?」
「ほんの一時間です」
「一時間、やばっ、ロリスちゃん、やばすぎ」
 莉奈ちゃんは、私には意味の分からない言葉を繰り返す。
「あぁー、でも、うまい。ぬるいけど……。高級な豆の味」
「いえ、スーパーで買ったものです。丁寧に淹れると味もちょっと変わるみたいですね」
「ふーん、なるほど。スローロリスだからこその特技かぁ」
 莉奈ちゃんの背後の窓には、莉奈ちゃんの趣味のショッキングピンクのカーテンがかかっている。その横の壁には、一カ月前にこの部屋から出ていった男が貼ったヒップホップグループのポスターが貼ってあり、三人の男が「いぇーい」とでも言うように手を突き出してこっちを見ている。
 時計の針を見ると、もうすぐ縦一直線の六時になる。午後六時だ。
 莉奈ちゃんは珈琲を飲み干すと、じゃあ、仕事に行ってくるわ、と玄関に向かった。彼女はこれから近所のスナックで夜中まで働く。
 莉奈ちゃんは出ていく瞬間に振り向いて「珈琲、まじ、うまかった。ロリスちゃん、サンキュー」と言うと、ドアをバタンと閉めた。
 莉奈ちゃんのハイヒールの足音は、コンクリートに穴を開けるかのように、がつんがつんとマンションの外廊下に響く。私は、がつんがつんに合わせるように、ポスターに向かって「いぇーい」と言ってみた。

『きみも莉奈ちゃんも夜行性だし、たぶん性格的にも上手くいくと思うよ』
 まんまる不動産の担当者は、私にそう言ってルームシェアを勧めてきた。莉奈ちゃんが住んでいたこの部屋に私が越してきてのが一週間前。都会の高い家賃を半分ずつ負担する、莉奈ちゃんとはそういう仲だ。
 莉奈ちゃんが仕事に行って静かになった部屋で、私はゆっくりと珈琲を飲んでから、夜中に莉奈ちゃんと食べる食事の準備をした。
 そして、十二時前になるとパソコンの電源をいれた。
「こんばんは」
 十二時ぴったりに原田さんが画面に現れた。
 私は人の話を聞くことで生計を立てている。焼き鳥屋で知り合った変な関西弁を話すおじさんに、この仕事を勧められた。動きが遅い私には、なかなかぴったりの仕事がなかったので、座って人の話を聞くだけでお金をもらえるなんて、そんな上手い話があるはずがないと思いながらも、ネットに『あなたの話、聞きます』という広告を出した。
 太陽が沈んだあと、眠れない人がパソコンの電源を入れる。夜は長いと感じる人が、ネットを検索して、私とつながる。世の中にはただ話を聞いて欲しい人が、なんと多いことだろう。しかも、画面で顔を合わすだけの、のろまのスローロリスに。
「原田さん、こんばんは」
 原田さんはリピーターさんで、週に一回、画面越しに会話をする。元商社マンで、Tシャツを着ていても鍛えられた肩の筋肉が目立つ、三十代の独身男性だ。
「どう? そちらの新生活は? 同居人の子とは仲良くやってる?」
「まあまあ上手くいってます」
 私はカップ麺の容器と珈琲の話をした。原田さんの右頬にある小さなホクロを見ながら、莉奈ちゃんのサンキューという言葉まで話した。
「私は莉奈ちゃんと友達になれそうです、たぶん」
 原田さんは頷いて「口は悪そうだけどね」と笑った。
「悪いですね。でも、私のことをイライラするってはっきり言う人の方が、無言で態度だけでイライラを表す人より、楽です」
 原田さんは頷いた。
「僕は、時間を有効に使うということは一秒でも早く動くことだと、ずっとそう思っていた。仕事が遅い同僚や部下を見ると、イライラするだけじゃなくて、ずいぶんと酷い態度をとってきたんだ」
 原田さんは右手に持っていたグラスに口をつけた。ビールを飲んでいるようだ。私もコップに入れていた水を飲んだ。コップを持ち上げて口に持っていく私の右手の移動時間は、他の人にとっては我慢できないくらいに長い時間がかかる。原田さんは、ビールを飲みながら黙って私の動作を見ていた。
「きみのその動きを初めて画面越しに見たときは、イライラして気が狂いそうだった」
 私は笑って「そういう顔をしてました」と言った。のろまだからと学校で無視されたとき、駅の階段やスーパーのレジで舌打ちをされたとき、顔を上げると決まって歪んだ顔が私を見ていた。
「眠れないって言う部下がいたら、じゃあ仕事したらいいじゃん、って言ってたし。なんだろうね、僕って、酷いよね。何を考えていたのだろう。自分が眠れなくなって、仕事もやめて、時間だけはあるからぐずぐずと過去を振り返るようになったら、僕の過去はね、タイムラプスで撮影した動画みたいなんだ。タッタッタッと流れる」
 私はスマホで見たタイムラプス動画を思い出してみた。
「タイムラプス好きですけどね、短い時間にテキパキと動いて、印象に残って」
 原田さんはふんというように笑った。
「現実味がないよね、そんな感じなんだ、僕の過去は。タッタッタッとコマ送りのように流れて一瞬で終わり。虚しいなぁと思ったよ。それでも、まだ僕はゆっくりすることに慣れないんだ。身体は慣れても、気持ちが慣れない。置いてきぼりにされている感じがする」
 原田さんはまたビールを飲んだ。私も水を飲み、お互いしばらく黙っていた。原田さんのいる部屋の壁には、丸い大きな時計があって、秒針がコチコチと規則正しく音を立てる。そんな小さな音まで、私のところに届く。
「原田さん、昨日の夜はね、仕事に行った莉奈ちゃんから突然電話がかかってきたんですよ」
 私が話し出すと、原田さんはまっすぐに私の目を見た。
「莉奈ちゃんが(この電話を切ったら、すぐに私に電話して。すぐによ。そして私が電話に出たら、大きな声で、お腹が痛いから莉奈ちゃん帰ってきてって叫んで)って言うのです」
「ほう」
「すぐにって言われたから急ぎました。莉奈ちゃんが電話を切って、すぐにリダイヤルボタンを押して、言われとおりに、お腹が痛いって叫びました」
 原田さんが顔をパソコンに近づける。
「莉奈ちゃんは私の叫び声を聞いてから(ロリスちゃん大丈夫? わかった、すぐに帰るね)って芝居がかった声で言って、電話の向こうにいる誰かに(ごめんなさい、同居人の体調が悪いからアフターは行けません)って言ってるんです」
 原田さんが笑いはじめた。
「苦手なお客さんから誘われたらしくて、断る嘘に私を使ったんです。あとで莉奈ちゃんに(スローロリスのすぐって五分後かなって思ってたけど、すごいじゃん、三分以内に電話がかかってきたよ。助かった。ありがとう)って言われました」
「面白い子だなぁ、莉奈ちゃんって」
「私は、すぐにって言葉や、急いでって言葉が苦手なのですが、五分が三分になって褒められるって良いなぁって思いました」
「なるほど」
「私でも役に立つことがあるんだなぁって思いました」
「きみは充分に役に立っているよ。こうして話しの相手をしてくれるだけで、僕にとっ」
 原田さんがしゃべっている途中で、勢いよく玄関ドアを開ける音がして、ただいまぁ、ひぃ、疲れたぁ、と莉奈ちゃんが大声で言いながら部屋に入ってきた。
「あぁ、ごめん。仕事中だった? あら、イケメンじゃん」
 莉奈ちゃんは、私の横にどたんと倒れるように座って、パソコン画面を覗きこんだ。マスカラが落ちて目の下が黒くなっている。
「こんばんは。莉奈でぇす」
「はじめまして。原田です」
「原田さん、ロリスちゃんと話してるってことは眠れない人なの?」
 原田さんは画面の向こうで首を縦に振った。
「じゃあ、 夜、ひまよね? 原田さん、ロリスちゃんと話すの飽きたら、ウチの店に来てよ。楽しませてあげるから」
 原田さんは声を上げて笑った。
「ちょっと莉奈ちゃん、仕事の邪魔しないでください」
「はいはい。原田さん、またねぇ」
 莉奈ちゃんは原田さんに手を振ってバスルームへ向かった。その後ろ姿を、原田さんの目が追う。
「原田さん、莉奈ちゃんのお店はね」
 私は莉奈ちゃんの店の名前と場所を教えてあげた。
今日は私ばかりが話をして、原田さんの話しをあまり聞いてあげられなかった。原田さんは、私と話すのをやめて、莉奈ちゃんのお店に行くだろうか? それも良いかもしれない。
 カーテンの隙間から月が見える。月がこちらを見ている。
ねぇ、お月さま、この球体の動物園を観察するのは楽しいですか?
「ロリスちゃん、お腹すいたぁ」
 バスルームから出た莉奈ちゃんが、私に抱きついてきた。

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