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エロを小さじ1 《最終話》

《最終話》そしてハッピーエンド?

「和牛のたたき」
「おこぜの唐揚げ」
 池上貴明が予約してくれた小料理屋の、木の温もりのある個室に座ると、貴明と春香はメニューを覗き込み、次々と料理を選んだ。
「おくらの天ぷら」
「おっ、それ、僕も食べたかったんだ。あとは季節の野菜の炊き合わせ」
 食の好みが似ている。そんな男と料理を選んでいるだけで、春香の心は踊った。
 食べ物の趣味が合う人と向かい合って座る、食べる、飲む、話す、笑う。食べ物と二人の間の空気が絡まって、喉を伝い内臓に到達する。
 これこそがエロティックというものではないか、と春香は心の中でにやにやと笑っていた。

「その後、妹さんはどう?」
 運ばれてきた冷酒で乾杯すると、貴明がすぐに訊いてきた。
「冬美は、博史くんと仲良くやってる。二人ともエロティックの素のことは、笑い話にしているみたいよ。とても自然体でお付き合いしているみたい。毎日、楽しそうよ」
「そうか、それは良かった」
 妹の冬美の爪はもう塗られていない。髪を巻くのも止めてショートヘアに変身している。それでも肌の内側からきらきらとしている。春香は最近の冬美を眩しく羨ましく感じていた。

 料理が運ばれてきた。
「美味しい」
 貴明と微笑み合う。心に旨味が染み、広がる。春香はしみじみといろいろな想いを味わった。
「あなたのお父さんは、その後どう?」
「あぁ、親父ね」
 池上がくすっと笑った。
「親父、なんと自分の元嫁、つまり僕の母に謝りに行ったらしいんだ。子育て中、ちゃんと妻の話を聞いてあげなかったことに気づいて、妻に向き合わなかった自分を恥じているとか言って、そりゃあ浮気されても仕方がなかったとか、すまなかったとか、言いに行ったんだってさ」
「あら、まぁ」
「で、驚いたのは、その後も連絡を取り合っているというか、お互いの家を行き来しているらしいんだ」
「まぁ、なんと。良かったじゃない」
「僕は、母のことをまだ許しているわけじゃないけどね。うん、でも、もういい歳の大人だから、親父が良いのなら、って思ってる」
「お母さんも、まだおひとりだったのね」
「そう、男と駆け落ちしたけど、すぐ別れたみたいだね。僕としては、もう親父を傷つけることだけはして欲しくない、それだけだよ」
 純米吟醸の冷酒を、二人で黙ってちびちびと飲んだ。
 あの講習会のこと、エロティックの素のこと、池上に声をかけられてから今日まで二人で何度も会ったこと、池上との会話。この慌しかった日々を春香は思い出す。
「なんだかんだ言って、私の妹の冬美も、あなたのお父さんも、それぞれ幸せになったってことよね。良かったわ」
「まぁ、結果オーライと思うしかないね。あの講習会の主催者たちは逃げてしまったけど」
「小早川夫婦」
 二人で顔をしかめた。小早川純也と洋子が逃げてから、はや一か月。
「あとは警察がどこまで動くのかを見守るだけになったわね」
「あぁ、そうだな」
 貴明が、春香の空になったグラスに冷酒を注いでくれる。春香はそのグラスを、貴明のグラスに軽くぶつけた。何度も繰り返す乾杯。
 今日は酔ってもいいかな、と春香は思った。
「実は僕もね、前より良い感じなんだ。僕にも素敵な出会いがあったからね。この問題に関連して」
「えっ?」
 春香の心臓がどくっと大きな音を立てた。
 ここで告白されるのか?
 春香は持っていた箸を置き、両手を膝の上に置いた。姿勢を正して、好きな人の言葉を受け止めようと思った。
 好きな人。春香は、もうはっきりと自分の気持ちに気づいていた。私はこの人に好意を持っている。出来ればこれからも連絡を取り合いたいと思っている。そして、それ以上の関係に発展させたいと願っていた。
「この問題に関連して、キミと出会ったのも良いことのひとつ」
 どきっとした次の瞬間、ひとつ? と疑問が湧く。
「あとはね、ファシナンテで、男を十人集めて講習会があったよね。あのとき、僕は、ひとりの若い男の連絡先を訊いたんだ。ファシナンテの情報を集める目的でね。そして、その子と、ときどき会って、飯を食ったりしているんだ」
 池上貴明が今まで春香に見せたことのない、はにかんだような笑みを見せた。
「魅力的な子なんだ。彼は異性を好きだから、僕と恋人関係になることはないだろうけど」
 池上は冷酒のはいったグラスの中を見つめて言う。
「僕は、彼のことが好きなんだよ」
 はい、終了! 試合終了のホイッスルが聞こえた。 
「まぁ、そうなのね」
 春香は、努めて明るい声で言った。
 素早く箸を手に持ち、大根の糠漬けをバリバリと噛んだ。思いっきりバリバリ。
「きみとも、こうして楽しい時間を過ごせるし、ハッピーエンドって言ってもいいかな」
 そう言って、池上貴明は笑う。
「そうね、小早川たちには逃げられたけど、とりあえずはオッケーよね」
 春香も笑いながら大きな声で言った。
 糠漬けが塩辛すぎる。
「さぁ、じゃんじゃん飲みましょ。これからも誘ってね。一緒に飲みましょ」
 大根の糠漬けをバリバリ噛んだ拍子に、ほっぺたの内側も噛んでしまったようだ。痛い。涙が滲む。
「ねぇ、今度、あなたのお父さんもその好きな男性も、冬美と博史くんも、みんなに声をかけて、一緒に飲みましょうよ」
 貴明が、それ、いいねぇ、と無邪気に笑う。
 春香は冷酒をくいくいと勢い良く飲んだ。
 うん、まぁ、あれよね。彼氏なんて、いてもいなくても、明日はくる。明日も楽しい。それでいい。
「かんぱーい」
 春香は、魅力的な男友達となった貴明に笑顔を見せた。

 都内マンションの一室。さまざまな年代の女性が小さな子供を連れて集まっていた。
 その中央で、肌が透き通るように美しい女が、エプロンをつけて微笑んでいる。その横には、やはりエプロンをつけた男。
 女が、口を開いた。

「皆さん。本日は『子育ての悩み捨て隊』にご参加いただき、ありがとうございます。
 今日、ここにお集まり皆さんは、子育て真っ最中のママたち。小さな子どもの世話に追われて悩みがいっぱいのママたちですよね。
 分かります。分かります。
 頭痛薬のコマーシャルのように、頭が痛くても笑顔で子供と話したい。SNSで見る親子写真のように、子供が数人いてもお洒落なママでいたい。
街で見かけるお母さんのように、子供が走り回っても泣いても、余裕で対応したい。
 そう思いながらも、今日も鬼のような顔で子供を叱ってしまい自己嫌悪に陥ってしまうママ。
 大丈夫です。みんな同じです。
 ここにお集まりのママさんたちは、みんな同じような悩みを抱えていらっしゃいます。
 私もそうでした。毎日、子どもを叱りながら、いつかは子どもにも夫にも嫌われてしまうのではないか、と悩んだりもしていました。
 でも、私は変わりました。
 これです。この『ママ大好きの素』に出会えて、変わることができたのです。
 本日は、これを小さじ一杯分サービスさせていただきますね。シュッシュッっと、みなさんに吹きかけさせていただきます。
 ほら、おわかりになるかしら。この香り。
 この液体には、子供が好きな甘い香りバニラをベースに、ママたちの精神を安定させるさまざまなハーブをブレンドしています。
 子供たちは、ママの甘くて美味しそうな匂いを嗅ぐことで、アイスクリームを食べているときのような集中力を発揮します。
 ママ自身は、この香りを嗅ぐことによって精神が安定し、可愛い子どもをより可愛いく思えるのです。
 本日は、子育ての悩み相談に加えて、この『ママ大好きの素』を販売いたします。
 通常価格は一万円です。が、今回参加してくださった皆さまにだけ、特別価格の五千円で提供させていただきます。今なら五千円。半額の五千円です。
 ぜひ、この機会にお求めになって、素敵な子育てライフをお楽しみ下さいね」

                   《了》

                    


noteの創作大賞に初めて参加します。
約35000文字の連載となりました。一応、恋愛小説部門です(笑)
完結できたのは、読んでくださる方がいたからです。
最後まで読んでくださった方、スキを押してくださった方、コメントを書いてくださった方、マガジンに収録してくださった方、本当にありがとうございました。感謝!


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