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ちりんブルドッグ

 僕がその男と出会ったのは、ちょうど一年前の春だった。
 豊島区にある、風がそよっと吹いてもガタガタと揺れそうな木造二階建てのアパートで、隣の部屋に住んでいたのが、その男だった。
「木村と申します。よろしくお願いいたします」 
 大学進学のために上京した僕が引っ越しの挨拶に行くと、その隣人は、なんと犬の着ぐるみを着て玄関から出てきた。服には耳やしっぽもついていて、首には大きな鈴もぶら下がっていた。
「あ、学生さんかな? こちらこそよろしく」
 犬の着ぐるみを着た隣人は、とても親しみやすい笑顔で、こくんと頭を下げた。首の鈴がちりんと鳴った。
 僕は田舎の母親が用意した挨拶用のタオルを差し出しながら、どんな表情をして良いのか迷って、頬に力を入れ無表情を保った。この着ぐるみは、パジャマなのかな? と思いながら。
「東京は初めて? 分からないことがあったら、遠慮なく俺に訊いて」
「ありがとうございます。そうさせていただきます。では」
 僕はもう一度頭を下げて、ポーカーフェイスのまま、その場を去ろうとした。
「あ、それから、俺はね、ブルドッグだから」
「はい?」
「俺は、ブルドッグだから」
 隣の男はそう言って、ワンと吠えた。

 男は、とても良い隣人だった。
 壁の薄い安アパート。僕と似たような環境にいる大学の友人たちは、隣の物音に悩まされたり、部屋で仲間と飲んでいたらうるさいと怒鳴り込まれたり、よく隣人と揉めていた。
 でも、僕のひとり暮らしは平和だった。隣から聞こえる物音は、ちりんちりんという鈴の音ぐらい。僕の友達が遊びに来て夜中まで騒いでいても、壁をドンドンと叩かれて文句を言われることもなかった。

 隣の男とは、アパートの階段や周辺の道でよく顔を合わせた。
「こんにちは。どう? 東京には慣れた?」
 笑顔でそう訊ねてくる男は、犬の格好をしている以外は、感じの良い営業マンのようだった。
 男は、常に犬の着ぐるみを身につけていた。気温の変化が激しい春なのに、いつも同じ格好で、ちりんちりんと首につけた鈴を揺らしながら歩いていた。
「ちりんブルドッグ」
 僕は、心の中で、彼をそう呼んだ。

 ある日、近所のスーパーの出口で、ちりんブルドッグに会った。いつもの格好をした彼は、大きな買い物袋を胸に抱えていた。
「あれ? 犬を飼ってるんですか?」
 ドッグフードという大きな文字が見えたので、僕はそう訊いた。
「うん? あ、これ? これは、俺の飯だよ」
「……」
「こっちの乾燥したタイプは通常のご飯。そして、この缶入りのはね、特別な日のご馳走なんだ。美味いんだよ、このドッグフード缶」
「はぁ」
「木村くんは、犬、好き?」
「あ、はい。大好きです。実家には雑種の保護犬がいます」
「そうなんだ」
 ちりんブルドッグはとても嬉しそうに笑った。笑うと頬がたらんと下がって、本当にブルドッグのような愛嬌のある顔になった。
 僕たちは、横に並んで、アパートまでの道を歩いた。ちりんちりんと鈴の音がする。
「あの、お仕事は、何をされているのですか?」
「あ、俺は今、修行中なんだよね。作家の」
「作家さん、なんですか?」
 文学部にいる僕の声のトーンが上がった。
「いや、アマチュア。ただ書いてるだけなんだ」
「どんな小説を書いているんですか? 純文学?」
「いや、ファンタジー。今書いてるのはね、犬になりたい男の話」
 僕は、ちりんブルドッグの横顔を見つめた。つまらなそうな話だな、と思った。
「ほら、木村くん、見て」
 ちりんブルドッグが指差す方を見ると、おばさんがリードにつないだチワワを抱き上げるところだった。
「抱っこされたワンちゃんも、あのおばさんも、とっても幸せそうな顔をしているよね。あんな風にね、無条件に愛し愛されるって世界って良いと思わない? 僕が書いている犬になりたい男はね、犬になって人々に安らぎをあげたいと願っているの。休日の二度寝みたいな、一瞬の短い夢まで見る安らぎをね」
「はぁ。あのぉ、人間のままで、安らぎを与えるんじゃ駄目なのですか?」
「人間のままで……。うーん、それだとなかなか無条件にならないよね。なんかさ、安らぎの種類が違うんだよね」
「はぁ、そうですか」
 田舎にも色々な人間がいたけれど、都会の色々はより多彩だなと思いながら、僕はちりんブルドッグと並んで歩いた。
 ちりんちりん。ちりんちりん。鈴が鳴る。
「木村くんは、何になりたい?」
 アパートのドアの前で、ちりんブルドッグは僕の顔を見て言った。
「えっ、僕ですか? 僕は小学校の教員になる予定です」
「教員かぁ。木村くん、馬って感じだけどね」
 ちりんブルドッグはそう言って僕の目を覗き込み、自分の部屋に入っていった。 
 馬。僕は馬になるべきなのか。

『今日は満月よ。東京では見られないでしょ』
 母が画質の悪い満月の写真をメールで送ってきた。
 ベランダに出て空を見上げると、まんまるの月が笑っている。スマホでその写真を撮った。
『こっちの空にも、なぜか月はあります』
 僕は田舎の母に東京の満月を送り返した。
 隣の部屋からは、遠吠えのような犬の声が聞こえる。
 ウォーンウォーン。ちりんちりん。

 僕の東京生活、大学生活は一年を迎えた。
 本日、日曜日、僕はインターフォンの音で起こされた。せっかくの休みなのに、と思いながらドアを開けると、以前に会ったことのある不動産会社の人が立っていた。
「朝早くにごめんね。お隣のことで、ちょっと訊きたいんだけど」
 不動産屋の説明では、僕の隣人は数カ月間家賃を滞納しており電話にも出ない、今日様子を見にきたら、部屋はもぬけの殻だった……ということだった。
「どこ行ったか、知らない?」
「はぁ、分かりません」
 そう言えば、ここ何週間も、隣人の姿を見ていなかった。ちりんちりんと壁越しに鈴の音は聞こえていた気がするけど。
 不動産屋に連れられて、僕も隣の部屋に入った。空っぽだった。テレビもベッドもない。部屋の中央に、小さな犬だけいた。
「え? 犬?」
「そうなんだよ。残されていたのは、この犬とドッグフードだけ。まったく。困ったな」
 犬は、こちらの様子を伺うように部屋の中央にお尻をつけて座り、じっとしている。
「この犬、どうするんですか?」
「どうするもなにも、飼い主が消えてるんだから、保健所に連絡するしかないね」
 不動産屋は眉間にシワを寄せた。
「あのぉ、僕が飼っても良いですか? この犬、僕が引き取ります。このアパート、ペットOKですよね?」
「そうしてくれる? こっちもその方が嬉しいし、じゃあ、犬とそこにあるドッグフードも引き取ってよ」

 僕は犬をつれて自分の部屋に戻った。
 隣から持ってきた缶入りのドッグフードを開けて、皿に移し、犬の前に置いた。
「特別な日のご馳走、ですよね?」
 僕が言うと、犬は短いしっぽを振り、皿の中に顔を突っ込んで食べた。
 僕は床に寝転び、ドッグフードを食べ終わった犬を抱いた。犬の体温がじんわりと腹から腹に伝わってくる。
「うん、休日の気分ですね。二度寝して夢の中にいるみたいです」
 僕がつぶやくと、ブルドッグはクゥーンと甘えた声を出した。
「僕は、馬にはなりませんけどね」
 僕の言葉に、ブルドッグは笑うように顔をぷるぷると震わせた。
 鈴が鳴る。ちりんちりん。



二年くらい前に、他のサイトに投稿したものを、思いっきり書き直しました。ワン。

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