精読『完本チャンバラ時代劇講座』第四講その一

第四講の主役は"青年"である。
まず橋本治が提示する青年は、黒澤明監督映画『椿三十郎』である。青年達を加山雄三を中心とする東宝の若手陣が演じている。
正義で真面目で好感の持てる加山雄三は、城代家老の甥を演じ、伯父の家老に意見書を提出する。しかし伯父はニヤニヤ笑って相手にせず、そんな伯父に愛想をつかした加山雄三は、大目付の菊井さんをたよる。
青年たちはこの菊井さんを、"本物だ"と評価し頼るのである(もちろん悪人である)。
そんな青年たちの前に、「手前ェ達のやることは危っかしくて見ていられねェや」と言って登場するのが、三船敏郎扮する椿三十郎である。彼は青年達の教育係なのである。どんな教育かというと、「人は見かけによらないよ」ということを示すためである。
三船敏郎は、一生懸命考えてもちっとも分からない好青年達を「バカだ」「バカだ」とせせら笑うために出てくる。したがって、橋本治は、この映画の最大のテーマを「青年とはバカなものである」とする。そして、そういうことを正確に教えてくれる人がいるということは、青年にとって、非常に幸福なことであるから、この映画は「"教育"の映画で、幸福な映画だ」とする。
椿三十郎の「バカか、手前ェら」というセリフは、『仮名手本忠臣蔵』の大星由良助による「ご料簡が、若い、若い」というセリフとおんなじであると橋本治は言う。ただし乱暴な口のきき方しか出来なかった椿三十郎も、まだまだ若かったと。
『椿三十郎』のもう一つのテーマとして、"教育する側"の問題というのもある。それは城代家老の奧さんが三十郎に向かって発したこんなセリフに表れている。
「あなたは、鞘のない刀みたいな人。よく切れます。でも、ホン卜にいい刀は、鞘に入っているもんですよ」
では、入るべき"鞘"がどこにもなかったら?という話なのである。
『椿三十郎』のラストは、三十郎と、仲代達矢扮する室戸半兵衛の対決シーンである。半兵衛を叩き斬った三十郎は、その場にいた青年達に「こいつは俺にそっくりだ」と言う。その前に「気をつけろ、俺は機嫌が悪いんだぞ!」と言って。この不機嫌は、半兵衛を叩き斬ったあとの、加山雄三による「お見事」というセリフからきている。三十郎は「バカヤロウ!きいた風なことをぬかすな!!」と初めて本気で怒る。三十郎は、半兵衛を自分と同じ"鞘のない刀"だと感じ、同じ"匂い"を持つものと思ったのである。
一方の青年達は、"鞘の外に出たことのない刀"である。一度も外に出たことがないから本当に"刀"であるか分からなかったのであるが、三十郎に出会って、"鞘の中"で"刀"であることを失わずにすんだのである。それこそが"教育"なのである。
この映画のラストで椿三十郎は、青年達に、「本当にいい刀は、あの奥方の言う通り、鞘に入ってるもんだ。お前達もおとなしく鞘に入ってろよ」と言う。それでも青年達は寄ってくる。それに対し三十郎は「来るな!ついて来やがると叩っ斬るぞ!」と言う。青年達にとっての"鞘"とは椿三十郎という"先生"なのは明白である。しかし三十郎は青年たちを拒む。椿三十郎はまだ"青年"だったのである。だから"鞘"に関して決めかねていたのだ。本当はもうひとつ別の道もあったのである。青年達が三十郎に平気で着いていって一緒に旅をする、三十郎が青年達の"鞘"になるという道が。
監督が黒澤明ではなく東映の沢島忠だったらそうしたであろう、戦前から戦後の東映映画に受け継がれる日本のチャンバラ映画の世界観はそういうものだった、と橋本治は言う。
しかし三十郎は青年を拒み去っていく。ギラギラしすぎる"青年"=椿三十郎は、自分の中のギラギラしすぎるものを、自分でもてあましているから、若いノホホンとした青年を斥けざるをえないのである。橋本治はこのことを、江戸が終わって明治になってから今までズーッと続いている"近代"の"青年"である、と言う。そして日本の近代は父子の断絶である、と。
椿三十郎は、父になれない男、父になることを拒んでずっと"青年"のままでいる男なのである。
この映画が公開された1962年当時既に日本には、世代の異なる二種類の"青年"がいたのである。ギラギラしすぎる青年と若いノホホンとした青年。一方は一方を求め、一方は拒む--拒まざるをえなかったのである。

その二へつづく
このあと橋本治はこの"青年"という考えを軸にチャンバラ映画の歴史(流れ)を紐解いていく。


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