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【Twitterまとめ】毒実母から「売女」「淫乱」「売春婦」と罵られ続けた話

私は毒実母に交際がばれて「売女」「淫乱」「売春婦」と目の前で目を合わせて大声で怒鳴られて罵られて、門限を16時にされて、トイレのゴミをチェックされて家族が見るリビングのカレンダーに私の生理の日は大きな印を赤でつけられた。

夏休み年上の彼氏ができて、楽しくて夜まで遊んでいたんだよね。深夜になってしまったのは不味かったけれど。その時、家にコッソリ帰ったら親が部屋に怒鳴り込んできて、そこから始まった。

親としての言い分は山のようにあるらしいし、当時十代の私も至らない点は沢山あったのだろう。それらの事実を並べてみたとしても、でもそのあとずっと『人間として扱われなかったこと』は、絶対に一生許さない。

ずっと責められて自分が悪かったと思っていたし、自業自得だと思い込んでいて長年この話は人に言えずに来たが。ある時思い切って人に話したら「自分も同じようなことあったけど、その時親と話し合って彼氏と同棲して、彼氏の家から高校通ってたよ?それ酷いね?」と言われ、あまりの衝撃に頭が真っ白になった。「十代でありがちだし、そういう人生もいいじゃない。うちの親は緩すぎるんじゃない?っていう問題があったとは思うけどさ。ちょっと親御さん酷いね。」と。それでもいいんだよ、って。驚いたんだよ。

ここ十年くらいで勇気をもってネット上では明かすようになったら『私も似たような経験をしました』と反響があり、毒親あるある話だったみたいで驚いた。歪んだ毒の強い母親というのは、娘の幸せに嫉妬して妨害する、認めない、娘が女性であることを全否定する、というのは、残念ながらよくある話らしい。

これが起きたのは高2の頃で、私は家庭で心閉ざしてそれから6年間、家庭内で一切会話しなかった。(そうしないと、自分の精神を守れなかった)そんな私に対して、毒実母は差別用語で申し訳ないがハッキリ書くと、キチガイ!オシ!精神病!精神病院に連れて行く!と騒ぎ立てて親戚じゅうと学校に私の淫行をばらしてやる!と事を大袈裟に触れ回った。

しかし学校の担任は実に冷静で、毒実母かおかしさに対応ですぐに気付き「クラスで成績も上位で常に誠実で頑張っています、なんの問題もありません」と答えてくれた。私は職員室に呼ばれ、毒実母が担任にどんな話をしたのか、そして担任自身がどう答えたのかもおしえてくれたし『なんだかお母さん大変ね。あなた家でも頑張りなさい。あたしは、あなたが学校ではちゃんとしてるの知ってるわよ。』と軽く言うだけで終わらせてくれた。この担任の対応のお陰で、学校ではちゃんと人間として生きられたから持ちこたえられた。今だに思い出すと涙が出る。味方で居てくれる大人が居たことが、あの時本当に救いだった。

しかし居場所がないのにその場所で一日の大半を過ごさなくてはならないことは、とても辛い。毎日電車で通学しながら、今この線路に飛び込んだらどうなるだろう?誰が葬式に来るだろう?泣く人は居るのだろうか?と、自分が死んだ後のことを妄想するのが、ストレス解消になっていた。この人生は終わらせることが出来るから、もう少し辛抱してみようか、と。人間は本当にギリギリまで追いつめられると、死ぬことだけが救いになってしまって、死ねることが最大の安らぎと思える瞬間がある。残念なことに。

家庭では毒実母が毒姉や、わざわざ電話して親戚に向かって、大声で

『次女が精神病になった。男に狂って家では黙っている。暴れて物を壊す。(毒実母があまりにも罵倒を耳元で繰り返すので、テレビのリモコンを目の前で床にたたきつけて壊した事が一度だけあった、たった一度だけ。)私は狂った次女にそのうち包丁で後ろから刺されて殺されると思う。毎日怖い。』

と言いふらした。私が食事をしている真横で、電話相手に、姉に、それを話すのだ。毒実母としては私を懲らしめるための低能な策だった。この件限らず同じような見せしめにする行為は子供の頃からされていた。明らかに精神的に病んでいたのは毒実母の方なのは、接している誰もが知っていることだった。それでも攻撃対象が私に集中していると、他の人々は矛先が向かないし毒実母の味方としての位置をとることでトラブルを避けられる。だから誰も私の見方にはならなかったし介入する人もいなかった。

私は家のリビングで食事をとることも、毒実母の作った物を食べるのも一切やめた。冷蔵庫の物を使って自分で簡単な雑炊みたいなもの作っていつも部屋で食べていた。バイトも親から禁止されていたし、お金がなかったから自分で買うまでできなかった。いつも自分の部屋で過ごした。

夜中になってリビングに誰もいなくなったら、テレホーダイでPCをネットにつないで、色んな人と会話をするのが楽しみだった。まだモデムはアナログで56kbpsの時代。その頃のネットのつながりで初めて私は、親から虐待を受けて自立した人や、毒親から逃げるために海外留学した人などと知り合って、朝まで語り明かした。生きのびるための支えだった。皆アドバイスをくれた「未成年だからどうしても親の言いなりになって耐えなければならない時期がある。ちゃんと学校を卒業して、仕事を見つけて家から出ることを頑張ろう。」現実的なアドバイスだった。

その頃から洗濯も自分で全部やっていた。身の回りのことを自分が出来る範囲で全て必死にやっていた。至らない点もあって中途半端だったけれど必死にやっていた。部屋に毒実母が勝手に入ってくるから、在宅中は部屋のドアの内側からドアにガムテープを張って過ごし、出かける時はドアの外側からガムテープを張って、勝手に入室されたら分かるようにした。毒実母に部屋を漁られるからだ。本当は部屋にカギをつけたかったのだけれど、それは父親が『子供部屋にカギをつけると中で自殺するからだめだ』という意味不明の論理で反対されていた。

毒姉からも父親からも「お前がろくでもない事をするせいで家庭が滅茶苦茶になった」と責められ続けた。家では父親と、学校の諸手続き、お小遣いを貰う、などで事務的な会話をした。高学歴の学歴厨の父親からは高卒も専門卒も許さないと言われ『絶対に4年制の大学を出ろ。卒業したらお前は人生を好きにしていい。だからそれまではここに居ろ。そうでないと許さない。学費は出す、大学は実家から通えるところしか許さない。』と言い渡された。大学を卒業すれば就職すれば、今の約束を盾に絶対に外に出られる。出てやる。

最短距離で確実にこの地獄みたいな実家を出るために、指定校推薦を目指した。内申点を上げるために本当に蕁麻疹が体に出るほど必死に勉強した。

毎日毒実母に罵られながら、指定校推薦の戦いも勝ち抜けて、正直どこでもいいからと選んだ大学に進学して、そこで卒業するためにまた必死に単位を落とさず勉強して、理系だったんで1年かけて様々な実験繰り返しながら卒論しあげて、それと並行して就職活動やったが氷河期の最悪の年だったので、この時も絶望しながらだった。

なんとか地方に正社員で就職口を見つけ、住む場所も会社の支援で賃貸を見つけて。そこでも毒実母に妨害をされたり「実家から通える就職先にしろ」とダブルスタンダードで父親から迫られたり、色々あったがまた別の機会に書く。

長い長い闘いがあって、やっと外に出られた。

高2の頃の事は、私が中年になって子持ちになった今でも毒実母に「お前が男に狂って家族が崩壊したんんだ、お前のせいで私がどれだけ不幸になったと思っている!売女!!淫乱女!!!」と罵られて続けていたので、事情を夫にも詳しく話して絶句され、もうそんな人と付き合わなくていいんじゃないの?自分の好きなようにしたら?とも言われ、連絡を絶って絶縁したのは最近のこと。

私は高2の頃、調子に乗って失敗をしてしまった。年上の大学生の彼氏ができたのだ。彼氏は車を持っていて、色んな場所に連れていってくれた。何より私を当時は経験したことが無かったくらい(家庭で家族から酷い扱いを受けていたためそう思った)驚くほど大事に扱ってくれた。夜のベイブリッジを車で走って夜景を見せてくれるなんて生まれて初めての経験だった。楽しかった。大黒パーキングエリアで肉まん食ったりしてたんだっけ、うろ覚えだけど。家に帰るのが0時近くになってしまった。失敗だった。

その失敗を、私は一生許してはもらえない。責められ続ける。

長い時間、私はキチガイで間違った人間として実家で罵られてきて、自分が悪かったのかと思わされる時間に支配されていたけれど、こうしてこの場所で呟くと、やはり親がおかしかったと思うし、そう声をかけてくれる人がいて、十代の頃の耐えていた自分に、そして必死に学業に向き合って、約束を反故しようとした毒親と戦って、外に居場所を見つけて飛び出して。心の底から「昔の自分よくやったありがとう」と言える。

このまま、出来るだけ自信を持って実家と絶縁したい。あの人たちと関わると、私は人間として扱われない。言うことを聞き入れないと罵られる。お前は間違った人間だと批判しかされない。もう二度と会いたくもない。

22歳で、就職氷河期で、毒親に妨害されたけど実家出て逃げた自分偉い。最初、家から出る時は宅急便で段ボール5箱だけの荷物しか持ってなかった、貧乏なスタートだったけど生き抜いてきた自分偉い。

無意味な罪悪感で縛られて、毒実家とその後も関わりを絶てなかったけど、もういいと思う。その後も沢山、人生の節目でもそうでない時も、不愉快なことで絶望した気分を何度も味わって希死念慮で私は死にかけた。カウンセリングにも通って立ち直った。

私は自分の子供を大事に、大切な人たちとお互いに人間として付き合いながら育てていこうと思う。子供も、自分自身も。健やかに生きられるように。心が不安になる揺れ幅を出来るだけ小さくできるように。

私の人生に二度と、機能不全家族だった人達に口出しさせない。

機能不全家族の中でも一番私に対して支配的で攻撃的だった毒実母の生き方は、全てが欠点探しで重箱の隅をつついて生きてる。だから何をしても満足しない。自分がいかに不幸であるかがステイタス。無い不幸をでっち上げる。他人の幸福にケチをつけて罵る馬鹿にする。

一生不幸な気分MAXで死ねばいい。

このツイートに反響が多くあって、自分の経験って世間から見たらかなり酷い状況だったこと、反応見ると「許さなくていい」「酷すぎる」で、ああそうだったんぁと思う自分が居る。昔は味方が少なくて自分が間違ってる?って迷いもあった。今も少し心が弱くなるとそれが出てくる。でも「許さない」の方が勝ってきた。

自己肯定感って、一気にバーン!と得られるものではなくて、経験から少しづつ少しづつ積み重なっていくようなもののように思ってる。地層のように降り積もって硬い土台が出来上がっていくように。今日これを思い切って書いちゃった事への第三者からの反応も、なるほどそうだったのかと、その積み重なっていく層の中にふわっと乗っかっていくイメージ。

それでも、今これを書き終える直前の私は、不安が増幅してくる。

「やはり私が悪かった自業自得なのではないか」

「書いた後で第三者からも責められるのではないか」

私の人生の中でこの話はあまりにも強烈で胸をえぐられ続けていて、今も傷口から鮮血が流れ続けているイメージに近い。こうして文章として書き残して、人前に晒すことが出来るようになっただけでも大きな一歩だから、私は自分をやっぱり労って『昔はそんなこともあったよな』って自分自身で昔話に出来るように、していきたい。

生きていかなきゃならないので。記憶は消すことは出来ないし、仕方ない。一生あの毒実母に責められ続けて謝り続けて服従し続けるなんて無理だよ、よく生きてたなぁ。やっぱり昔の自分よくやった。凄い。お疲れ様。

反響の多かった自分のツイートを読みやすいよう、繋げてテキストとして残しています。(誤字脱字の修正と文章の微調整をしてますのでオリジナルを改変しています。)

投げ銭を頂いたりしたら、嬉しさと興奮のあまりワタクシの鼻毛が伸びる速度が上がって大変な事になることでしょうね…。