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転職23回のひと。

知り合いの 「ねんきん定期便」を見せてもらった。
コーヒーを淹れてもらうのを待つ間、「まぁこれでも見てて」というような軽いノリだったのだけど、思いがけず読み応えがあって姿勢を正してしまった。

その人、Zさんは転職ばかりする人で、親からは「あなたは何やっても続かない」と長年言われていたそうで、私も「えっ、こないだ入ったとこもう辞めたの」「また求人誌見てるの」などと密かに思ったり、直接口に出すこともあった。
たとえば恋多き女というのか、次々に相手が変わる人がいるけれど、Z さんはその職場版というか、よさそうな会社に入ったと思ってもそのうちソワソワし出して、あっという間に別の会社に転職しているのだった。

でもそんな見方は短絡的かもしれない。
ねんきん定期便の数枚の用紙の表裏にびっしり、国民年金と厚生年金の加入と脱退記録が印字されているのを一つずつ見ていくと、〈いつどこに就職して辞めて、しばらく休んで、次にここに入ってまた辞めて〉など1ヶ月単位でZさんの人生が浮かび上がってきて、なんだか私は圧倒されてしまった。
そして「よくまぁ何度も転職するなぁ」は、「何十回も転職しながらたくましく生きて来たのだなぁ」に変わった。
記録によるとZさんの社会保険加入の社員生活は24回。そこに含まれない事務のパートや工場バイト、スナックバイトなども入れるといくつ職場を経験したことになるのだろう。
今、CMでよく見かけるハイクラス転職やSNSで時々目にするキラキラしたキャリア形成とは真逆で、コスパやタイパとは無縁のつぎはぎの職歴を持つZさんの人生が、なんだか今、とても豊かに思えてくる。
それを証明するように、ねんきん定期便の紙の束を手にして「ちょっと見て、もう恥だねこれは」と苦笑い&照れ笑いするZさんからは、なにやら清々しい達成感のようなものが滲み出ていた。

Zさんは今年の秋に還暦を迎え、来年春には定年退職する。
せっかくなので彼女の18才から60才までの仕事人生を冊子にして還暦&退職記念にプレゼントしようと思いついて、先月、インタビューをしてきた。
今、その時のメモを整理しながらnoteの下書き機能に残しているところで、ここではほんの一部、かいつまんで(長文ですが)紹介してみたい。

1.宝石鑑定の会社 就職人生スタート 18〜19才 

バブル好景気を控えた1980年代前半。
高校3年生のZさんには将来の夢など特になく、「なんとなく大学を受けてみたけど落ちたので、どっかに就職しないとな」くらいに考えて、近所で学習塾を営む先生に「どこかないですかねぇ」と両親が相談して紹介された会社に就職した。
短大や4年制大学に進んだ友達を羨んだりすることもなかった。
「とくに勉強が好きなわけでもなかったし浪人する発想はなかった。あんまり深く考えてなかったなぁ」
就職先は宝石鑑定の小さな会社で、隣の都市まで実家から片道1時間半かけて通った。鑑定士が天然ルビーやエメラルドなどの形、色、傷などを判定したものを「カナタイプ(タイプライター)で打ってラミネートする」のが主な仕事だった。Zさんはそこを12ヶ月で辞める。

「一年で辞めた理由?嫌なことがあったわけじゃなくて、そこに勤めていた人はお嬢様が多くて、持ち物や服装が自分とは違っていて、いわゆるコンサバな感じ。〈昼休みにヴィトンのバッグを見に行かない?〉と誘われたりするけど自分は普通の庶民の格好なので、なんか世界が違うなぁって」
そう思っていたある日、「たまたま体調が悪くて、通勤が辛いなぁとハタと気づいて、それで辞めたいと申し出たらすんなり辞められた」
もともとZさんが就職できたのは、紹介してくれた塾の先生の義理の妹が結婚退職する空きを埋めるためで、その会社は(というかその時代の風潮として)女性は結婚までの「腰掛け」という認識(雇用者と就業者の双方とも)だったので、いずれにせよ長く勤める場所ではなかったのだ。
「そういえばあの頃、自分と同じ普通の家の先輩がいて、その人に『アルキメデスは傷つかない』って本を教えてもらって読んだなぁ」
Zさんの記憶ではそうなのだけど、実際にはそんなタイトルではなく『アルキメデスは手を汚さない』(小峰元 講談社文庫1974)のことだろう。

2.ゴルフウエアの会社(百貨店勤務) 19〜20才 

Zさんが次に就職したのは、アパレルの会社だった。
配属されたのは百貨店のゴルフウェア売り場。当時はテレビのゴルフ中継が人気で、それぞれのブランドと専属契約をしている有名ゴルファーが試合で各社の巨大なワッペン付きのウェアを身につけていた。
「楽しい職場だったよ。百貨店には前の職場と違っていろんな人がいて」
Zさんは売り場の人たち(それぞれ別の会社から派遣されている)に誘われてカラオケスナックやショーパブ、ディスコなど、夜の遊びを教えてもらった。
「そのとき思ったのは、学歴じゃないんだってこと。百貨店では大卒の22才と高卒のヤンキーで18才の女の人が同期だったりするけど、でも高卒の方がレジ打ちが早いし仕事ができてめちゃ格好良くて。大卒の人は気取っていて口ばかり」
忘年会なども盛んだった。宴会場を借りて【折りたたんだ新聞に男女ペアが乗って、はみ出したり倒れずにどこまで小さく畳めるか】という今ならセクハラ判定間違いなしの密着ゲームもあった。職場内でのロマンスや店員同士の喧嘩、ワキガの人がいたり口臭がきつい人のことも覚えているZさんなのだった。
そういえばコワモテの男性マネージャーがずけずけ物を言う人で「足首ないやんけ。お前サリーの脚やな」(注:アニメ『魔法使いサリー』の画像を参照のこと)と指摘されたこともあったが、不思議と嫌な人とは思わなかった。
「面白い時代だったなぁ。でも4ヶ月で辞めたのは…専門学校に行こうと思い立ったから。上司に相談したら、『休みを返上して出勤したり、今まで助けてもらってありがとう。頑張って』と気持ちよく見送ってくれた」
そのとき喫茶店で餞別にと腕時計をもらったことを今も覚えている。

3.ビジネスホテルA(宴会場〜フロント) 22〜24才

アパレルの会社を辞める直前、Zさんは『 De☆view(デビュー)』という雑誌で見つけた東京ディズニーランド(1983年開業)のキャラクターダンサーのオーディションを受けていた。

子供の頃、バレエを習い、学校教師の推薦をもらってコーラスの教室にも通っていたZさんはその経歴からか一次選考(書類)を通過したが、実技試験であっさり落ちたという。
「他の人たちを見て、もうこれは無理と一瞬で思った。私みたいなズブの素人が紛れて申し訳ないって感じ。すでにプロのダンサーでしょ、みたいな人ばかりで」
あまりにハイレベルな方々に圧倒されて、落ち込むというより「テヘッ」と退散して来たのだった。
ただ、Zさんは大のエンタメ好き。すぐに頭を切り替えてアナウンサーの専門学校を見つけ、百貨店勤務を辞めて通い出した。学校の紹介で事務所にも所属してデビュー直後のアイドルにラジオ番組でインタビューしたり、国内客船のステージで司会をするなど仕事もちょこちょこしていた。
ただ、アナウンス学校の講師からある時「ニュース原稿を読むあなたの声は気持ち悪い」と言われ、「確かにその通りだな」と素直に受け止め一年ほどですっぱり諦めた。
「表でなく自分は裏方が向いているんだな」と切り替えたZさんはホテルに就職。時間が不規則な職場で「休みが独自なもんだから」学生時代の友達と都合が合わず、それ以降は職場の人たちとばかり遊ぶようになった。そのうちの一人と結婚することになり、退職。ホテルで怖かったのは調理場で、挨拶や通る時の歩き方を注意されたり、ヘマをすると鍋の蓋が飛んで来た。「けど、ホテルや百貨店は面白かったなぁ、やっぱり接客が好きなのねぇ私は」

4.ビジネスホテルB(人事部) 27〜28才

結婚するかどうか迷っていた頃、アナウンス学校時代の仕事で知り合った憧れの女性と街でばったり再会して、新たに芸能事務所を立ち上げるので手伝ってほしいと誘われた。所属アーティストのライブに行ったり今後売り出すグループのCDをもらったりして心揺らぐが、迷った末に断って結婚。
「あのとき、もし彼女について行っていれば…」はZさんの口癖だけど、本当に後悔しているわけではない。選ばなかった道だからこそいい思い出なのだ。
その後妊娠が分かり、出産間近までマンションのショールームの受付のバイトなどをしたが、そこがリクルート系列の会社だったと今でも覚えているのは、当時江副さんが逮捕(1988年)されて話題になっていたから。
出産後、数ヶ月して仕事が決まってから無認可保育に預けて、前とは別のホテルの人事の事務のパートに行き始めた。
「覚えているのは、ベテランの女性でみんなに嫌われている経理の人が、そこを追い出されて人事へ移動して来たところだったから大騒ぎで」
それがZさんが職場で出会ったトラブルメーカー第一号である。
その人物は、経理で問題を起こして来たはずだったが、人事部でも情報漏洩(誰かの履歴書を別の人に見せた)が発覚して、またすぐ別の部署へ移動して行った。
どの職場にもトラベルメーカーは一人や二人は必ずいるようで、 Zさんはよくため息とともに「(会社は厄介な人でも簡単に辞めさせることはできないので)とにかくたらい回し!」と叫んでいる。
「そういえば当時休憩室で一緒になるモデルみたいな人がいて、その人にある時ランチに誘われて、不倫相談をされたことがあったな。上司と不倫する人が当時多くて、前のホテル時代にもよく相談されたっけ」

5.個人病院 はじめての同族経営 1ヶ月で退職 28才

好きなホテルの仕事(パートだけど社会保険加入)を一年で辞めたのは、ホテルといっても接客ではなく事務だったことと、自宅から自転車で5分程度の病院の求人を見つけたため。何より子どもとの時間を増やしたい一心からだった。

ただ、ここで思いがけないことが起こる。そこは  Zさんが始めて体験する同族経営の個人病院だった。
「中の人が、なんだかよどんでるっていうか…やり方が古いし、院長の自宅を兼ねているから、ご家族の世話やゴミ捨てなどもあったりして、え、これも仕事なの?ってなって。狭い世界で」
ちょっと無理!となって、 1ヶ月で辞めた。
この後も長く続く職務経歴の中でZさんを最も苦しめたのは人間関係や独特の慣習がある閉鎖環境の「よどみ」で、親族経営の同族会社では風通しが悪いこともあり、その打率が高かった。

6.どうしても思い出せない会社 1ヶ月で退職 28才

記録によると、個人病院を辞めてから2ヶ月あけて、次の会社へ就職したことになっている。
ただ、Zさんは全職場の中でこの会社のことだけ、どうしても思い出せない。何かヒントがあればとスマホで社名を検索すると染料の会社だと出てきて、うっすら、Tシャツとかタオルに何かプリントする会社だっただろうかという気がしないでもない。たぶんそこも家族経営だったのだろう。でも何も出てこない。
「当時は子どもの保育園に合わせて職種を選んだから、自分にはサービス業が合っていると分かっているのに、土日に仕事できないから結局事務職を受けて、それでやっぱり無理!となってばかりだったんだろうね」

7.着物の会社(事務) 久しぶりに一年以上続く! 〜30才 

思い出せない会社を辞めてから1ヶ月後、 Zさんは「とらばーゆ」で見つけた競争率高めの結構大きめな会社の面接に受かって入社した。
その会社のスポーツチーム(実業団)はとても強くて、優秀な選手(社員)はいいマンションに住んで、夕方になると練習に向かっていたのを覚えている。
同じ年頃の毛皮担当の男性社員に一度車で送ってもらったことがあり、なんとなく「ちょっといいな」とひそかに思ったけれど、その後Zさんが既婚者だと分かった途端に目が合うこともなくなり、しばらくして、会社が主催したミス何とかコンテストで選ばれた美女と結婚した。
その男性とは全く何もなかったのだけれど、Zさんの中で、それはちょっと華やかな思い出(ミス何とかと自分が一瞬でも競り合ったような気分)だ。
「そこそこ楽しかったし嫌なこともそんなになくて。だけどあまりその会社のこと覚えてないのは、当時それどころじゃなくて」
その頃Zさんは離婚話でゴタゴタ、バタバタしていた。結局その会社を一年半ちょっとで辞めて、19ヶ月のパート・アルバイト生活(社会保険なし/国民年金のみ)に突入する。

8.家族経営のアパレル会社 1ヶ月で退職 31才

離婚する前後のZさんは、職業訓練に通ったり派遣で大学の事務(データ入力)の仕事をしていた。
大学で感じの良い年下女性と仲良くなり、ある時「家に遊びに来ない?」と誘われて訪れると水晶を見せられた。
Zさんはこの後の職歴の中で、たびたびこうした宗教系の人に出会うことになる。
シングルマザーということで「悩みがあるならこういう会があるよ」などと誘われることが多かった。
その頃、Zさんにゲイの友人ができた。当時(1994〜1995)はLGBTという言葉は使われておらず、セクシャルマイノリティについて身近に考える機会はほとんどなかったZさんが、職場で気の合う男性からある時事情を打ち明けられ、ゲイバーなどに遊びに行くようになった。可愛らしい若い女性と仲良くなれると思ったら宗教に勧誘されたショックもあるのか、口は悪いけど優しい人たちと賑やかに過ごす時間が心地よかった。そして紹介されたスナックで夜のバイトを始めたものの、昼の事務があるのでお酒を飲むのがきつく、何より帰宅が遅くなって子どもと過ごす時間がない(夜は実家の両親に預けていた)ので、やはり正社員の職を探そうと決意した。

なのに次に就職した会社を1ヶ月で辞めたのは、家族経営でどこか不穏な空気が漂い、なんとなく『犬神家の一族』っぽさを感じたためだ。いるはずの人(社長)がいなくて、その件について噂話は耳に入ってくるけれど家族の誰も触れようとしない。
「番頭さんは外部の人でまともないい人だったし、商品を畳んでタグをつけて袋に入れるだけで仕事自体は何も嫌なことはなかったけど、このままでいいのかなぁ私、と思って辞めたのかなぁ」

ここからは、それ以降のZさんの職歴(社会保険つき)を簡単に列記してみる。

9.輸入雑貨・飲食店(事務) 2ヶ月
複数の人気店を展開する会社の事務職。産休に入る方から引き継ぎを受けるが、その方が職場のアイドル的存在で絶大な信頼を得ているらしく、アウェー感が半端なかった。何より経理などが独特のやり方すぎて何度聞いても理解できなかった。要は「水が合わず」。
10.マネキン派遣会社の営業職 2年弱 
百貨店にマネキン(販売員)を派遣する仕事。前日や当日にドタキャンするマネキンの代わりを見つけるのに苦労した。自分が売り場に立つことは禁止されているので穴をあけると怒鳴られ頭を下げるしか出来ず。ただ百貨店やそこで働く人は好きなので結構続いた。
11.有線放送の営業所 34〜36才 15ヶ月 
主に不具合や苦情対応などの電話番。一人の時間が長く暇すぎた。別の営業所の女性と自分のいる営業所の男性が不倫中で、アリバイ協力をよく頼まれてうんざり。
12.同族経営の会社 役員秘書など 〜41才 5年半 
創業者がカリスマ的存在として有名な同族会社に就職。親族や縁故採用による揉め事や派閥争いに疲弊する。長く続いたがZさんにとってここは「地獄の一丁目」だった。
13.12を辞めた人と別会社の人たちで設立された新会社 10ヶ月 
化粧品などの企画開発の会社の事務(&企画営業補佐)。自分以外の事務の女性は営業男性が連れて来た愛人で働かず、二人のイチャつきを見せられてうんざり。
仕事そのものは向いていたが、音楽バンドと同じようにメンバーの方向性の違いで解散。
14.ホテルC 1ヶ月
好きなホテル業界に再び就職。試用期間を経て正社員の道もあったが、実家の事情で無念の退職。Zさんにとって自分が辞めたくて辞めたのではない唯一のケース。
その後、親の介護で知り合ったケアマネさんの紹介でホームヘルパー二級を取得。
15.コンサル会社 21ヶ月 〜45才 
主に企画書や資料作成、経理全般など。わずか数名の会社でいろいろ任され、仕事が日常生活に食い込み追い詰められるが「代わりがいないのでなかなか辞められずに奴隷のような境遇だった」。ここが地獄の二丁目。
辞めた後も他で働きつつ、この会社と業務委託契約で仕事を続けることに。
16.訪問ヘルパーの仕事 2ヶ月 
仕事そのものの大変さより、腕を痛め、入浴介助などで利用者さんの命に関わるので退職。その後2年間、職業訓練の形で短大へ。介護福祉士の資格を取得。
17.介護関係の施設(入居型) 1ヶ月
働き出してまもなく、虐待などが横行する最悪の施設だと発覚。周囲からも「大学出てまでなぜあんなところを選んだの、あそこだけはヤバイよ!」と言われた。一旦介護を離れたくて別の会社へ。
18.ペンキ、塗装関係の会社 4ヶ月
有線の会社の時と同じで一人きりの電話番。やることが特にないのでトイレ掃除くらいしかすることがない。地獄ではないが地味に辛い。
19.家事代行サービス会社 2ヶ月 53才
介護事業に別業種が新規参入した最悪のパターンだった。現場経験や知識のない上の人が安さをアピールして客をどんどん取るので利用者との間でトラブルが多発。一回数百円で利用者にこき使われ、とんでもない要求をされることも。
20.病院事務 3ヶ月 
人間関係が最悪だった。上に相談して別の施設に移っても、やはり酷い状況。若い人がおばさんをいじめていたり、関わる医師や看護師が意地悪でパワハラモラハラ全部盛りでストレスマックス、ここは地獄の三丁目!
21.介護関係の施設 4ヶ月 
マシンなどを使って運動をする通所施設。直接介助がないと思っていたが、台など重いものを持ったり人を支える場面もあり腕の症状が悪化。事務職に移動を希望するも難しく退職
22.同族経営の介護施設
 4ヶ月
「相談員」の募集で入ったのに、人手不足だからと介護の現場に配属される。トップと複数の愛人たちが揉めて業務に支障が出たり施設内で事故が発生するなど、まともに働ける状態ではなく退職。

※Zさんの職務経歴書(介護職限定)によると、これ以外に7カ所の事業所で非正規雇用の形で働いていたようだ。介護の仕事自体が大変というより、命に関わる現場だから協力が大切なのに、そこで働く人の中にとんでもない人がいる、あるいはトップがどうしようもない、というのが1番の問題のようだった。だけどホテルや百貨店と同じように、介護の仕事でもたくさんの人に会えて、好きだからその界隈を転々としたのだろう(求人が多いというのもあるけど)。

23.百貨店の電話交換台の仕事(派遣) 3ヶ月
接客ではないが久しぶりの百貨店勤務。朝は発生練習から始まる職場にアナウンサー学校時代の記憶がよみがえり、女の園に気苦労もあったが久しぶりに緊張感や向上心があった。
しかし契約社員のつもりだったのに出勤日によって給料が変動するバイト同然の待遇だと分かり(応募時には知らされず)退職を決断。その数ヶ月後、新型コロナの流行で百貨店が一時閉館になり、そのままでは収入が断たれていたので転職したのは正解だった。
24.医療系事務職(人事部) 55〜60才(予定) 定年まで勤務すれば5年
同族経営の大規模な社会福祉法人。何代目かのトップのお気に入り人事、謎人事のしわ寄せで「その他の人」が振り回される職場だが、Zさん史上最悪ではない。ではないけれど、新卒や別業種から来た男性を抜擢、優遇し、給料も格段に高く態度は大きいけど仕事が壊滅的にできないのでフォローが大変」という理不尽さを感じている。
「若い頃ならとっくに辞めていたけど」これまで退職しなかったのは、感染症蔓延の時期だったことと、休みを比較的取りやすいことと、何人か信頼できる人がいるという砦があるためだった。しかし若い女性と上司の板挟み(セクハラにならないよう、女性から言ってと指導を頼まれるが、口の立つ若い人には反発されたり泣かれたりして大変)などで、最近はめまい症状に悩まされている。

おわりに

数年前、同じ歳のRさんから「私の人生ってなんだったのかなと虚しくなって。子どももいないし、これと決めた仕事を極めているわけでもないし」というようなメールが届いた。
その人はZさんほどではないけれど、そこそこ転職を重ねていて、ただZさんと違うのは、彼女は知的で、語学も堪能で自分の世界をしっかり持っている思慮深い人で、お菓子や雑貨などどれも選び抜いたこだわりの品を届けてくれて手書きのお手紙なども美しく、完璧主義に見えるところだった。
そんな彼女に、私は少し気圧されていた。自分の軽薄な部分を知られて失望されるのが怖いというか。

優秀な彼女の頭には「自分はこんなところにいるはずじゃないのに」という思いがあるのかもしれない。
同じ歳だから勝手に想像するのだけど、子どもの頃から「夢を持つことが大事」「個性を大切に」「充実した人生を送ること」などと大人やメディアに言われ続けて育ったことが、実は私たちを何より呪ってきたような気がする。

私も漫画家や絵本作家になるのが夢だと答え続けていたので、昔の知り合いに会うとちょっと気まずいのは、夢に挫折した人のように思われているんじゃないかと恥ずかしいためだ。
Zさんはそういう観念的なものに縛られていなさそうだ。
私や同じ歳のRさんは「自己実現」という呪いからそろそろ解かれた方が楽になる。世代の違うZさんの職歴を聞いて、そんな風に思った。

 Zさんはその都度大変な思いをしているが、心はいつも自由だ。
ひとり息子は、彼女とは対照的に大学を出て新卒で就職した会社で今もずっと働いている。
Zさんの話を聞いて、津村記久子さんの『とにかくうちに帰ります』(新潮社2016)をまた読み返したくなっています。

Zさんへ。どうにか定年の日までは今のところで頑張ってほしいししっかり退職金を受け取って欲しいし、最終コーナーを曲がったZさんを応援しているけど、その直前でコースアウトしても「らしくて面白い」のでオッケーです!
私も頑張ろ〜