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ある珈琲店の44年分のノート。

この数年、日本水仙の咲く季節に必ず思い出す人がいる。

上は2020年、下は2021年の1月にお隣さんから分けていただいたもの。

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日本水仙がこんなに甘い香りを放つとは、こうして飾ってみるまで知らなかった。数年前、この花を求めて何軒か花屋さんを回ったことがあって、水仙の季節が来るとその日のことを思い出し、部屋に飾っている間は特にその「届けたかった人、場所」への思いが濃くなる気がする。

大阪・阿倍野の路地裏にひっそり佇む『力雀』の店主、雀さんが他界されたのは2018年の9月末だった。そのお店はカウンター7席のこじんまりした空間で、1974年に開店してから2013年までは猫のミミィちゃんというスタッフがいた(初代がいつからいたかは現時点では不明。初期のノートに始めに出てくるのをこれから探す予定。私が会っていたのは三代目ミミィさん)。

それほど回数訪れたわけでもなく、久しぶりに訪れてもお休みなんてことも結構多くて、常連さんと比べるとごく淡い交流だったけれど、なんだかんだで15年ほど「雀さんの店」は特別な場所だった。

ただ、ある時を境に、私の足はお店から遠のいてしまった。

関東から久しぶりに帰省して意気揚々と訪れたその日、隣席で三人連れの客が芸術論か何かを賑やかに交わしていて、徹頭徹尾無視されているのかと思いきや、ふとした私の発言(持参した菓子をおすそ分けしようとしたか何か)を否定され鼻で笑われた(気がした)。私は語彙や知識に乏しく、トンチンカンな表現や前置きのない説明になるため、賢い方々から軽んじられることは結構あるのだけれど、宝物のような空間で心が冷え冷えするのはツラい。

久しぶりに訪れて、雀さんがゆっくりコーヒーを入れながらしゃべるのを曖昧な相槌を打って聞いたり、飾ってある雑貨を眺めたり、お客さんが何か書き残しているお店の名物、「力雀ノート」を開いたりすることができず、圧倒的なパワーと大音量のおしゃべりでその場を仕切っている人たちに「くつろぎ」を奪われてしまった。その場にいながら、私は心を閉じてしまった。

それから数年間は、たまたま天王寺や阿倍野に用事があってすぐ近くまで出かけても、なんとなく足をのばす気になれなかった。雀さんのせいではないのに。

最後に訪れたのは2018年の3月13日と14日。連日お店を訪ねたのは、前日に代金を払い忘れたためだった。

13日。隣の県で親戚のお墓まいりをした帰り、電車を乗り継いで雀さんの店を訪れた。連れもいて、というより彼の方がもともと店の常連だったので雀さんの店へ行くのは自然な成り行きだったけれど、私には少し気まずさがあった。けれど「来てくれて、会えて嬉しいわ〜」と、雀さんは久しぶりに顔を出した私に穏やかな笑顔を見せてくれた。

カウンターに座って数分もすると、過去のことはもうどうでもよかった。交通事故をきっかけに、不慮の出来事が続いてお身体のあちこちが痛むご様子で、お店を閉めることが増えたらしく、その日開いていて無事にお会いできたことが素直に嬉しかった。

その日、私と連れがカウンターで力雀ノートに書き込んだのはこんなことだ。周囲に貼っているのは、自分が仕事でデザインしたメッセージカードと、連れがお土産に持参した招き猫みくじ。

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お店には45年目を祝う色とりどりの切り花が飾られていた。開店当時を振り返って「その時はどういうわけか日本水仙をたくさんもらって、カウンターにダ〜ッと飾ってたの」と雀さん。私は「さっき、墓苑の前の商店でかわいい水仙が売っていたのに。あれを買って手土産に届けたらよかった」と思った。

その日、雀さんは私たちを店の向かいのお住まいに案内して、現像室を見せてくれた。親の介護中だった私は、身体に痛みがあったり動作に不自由を感じているなら「ベットやお手洗いに手すりをつけた方が安全だろうに」と心配になったが、壁の高いところにかけてあるカレンダーがその月(3月)になっているのを目にして(私は忙しさにかまけてカレンダーを翌月の二週目くらいまでめくり忘れることが多い)、規則正しく暮らしておられるし、不便さもご本人には馴染み深い快適の一つで、ご本人にとって「今まで通り」暮らすことこそが望みなのだろうと感じた。

私も連れも長年お店を訪れているものの、初めてご自宅へ誘ってもらったのはなぜだったのか。体の調子が悪くお店のシャッターを開け閉めするのが大変で、今まで誰かが前の道を通るのを待って開けてもらったりしていたものの、それも限界を感じて思い切って立派な電動シャッターにしたというので実際に開閉する様子を見せてもらうために店の外に出て、そのついでだったのかもしれない。そのままお店に戻らず、支払いをするのを忘れた。お店ではコーヒー1杯頼むとアルファベットチョコとジャムトーストがもれなく付いてくる。電動シャッターのローン支払いを抱えたお店にとって、二人分の代金を忘れてしまうというのは、とんでもないことのように思えた。だから翌日届けるついでにもう一杯コーヒーを飲もうとも。

翌14日。私は阿倍野に向かい、その途中で日本水仙を買うつもりでいた。けれど、どの花屋さんにもなくて、仕方なく黄色いラナンキュラスやスイトピーのミニブーケを買って、一人でお店を再訪した。なぜ、どんな種類の花束だったか書けるのかというと、覚えているのではなくて、そのブーケの写真が「力雀ノート」に(後日雀さんの手で)貼られているからだった。

今、私の手元には、珈琲店『力雀』にあった44年分のノートがある。

2018年の9月末、私は雀さんの突然の旅立ちを知った。

親族の方とは疎遠だったらしくお見えにならず、参列者のほとんどは店のお客さんで、それもたまたま訃報を知ることができた人に限られていたが、みんなで親戚同士のように(それぞれは特に知り合いでもないようだった)雀さんを囲み、それぞれ感謝やねぎらいの言葉をかけて見送った。その日私は道に迷い、ケータイも忘れて遅刻して、会場の入り口にたどりついた時に初めて気づいたことがあった。表の看板に書かれた馴染みのない氏名。そういえば、雀さんの本名を今まで知らなかったし、知る必要もなかった(手紙は「力雀様、ミミィ様」で届く)のだな、と。

閉式後、私は父がデイサービスから戻る時間が迫っていたか、それとも仕事をするためだったか、ともかくすぐにその場を後にした。残った私の連れと、何人かの有志の方がシャッターが下りたままのお店を訪れることになったという話は、後から聞いた。

ご親族によっていずれお店の建物や家財は処分されることになるだろうから、資産価値のないもので、かつ雀さんが大切にしておられた思い出の品を一時的に保管しようという話になったそうだ。その一つが開店以来続いてきた「雀ノート」(お店の名前が「力雀」になってからは力雀ノート)と、もう一つは店主がお客さんをカウンター越しに撮影したポートレイト、そしてメニューのポスター、あとは歴代ミミィさんたちのスナップ写真だった。それらは、とある一軒家の納戸に保管されることになった。

2011年にメディアの取材を受けた雀さんは「このノートは現代の社会現象の一部の資料として残したい宝物。永久保存版です。最後はどうなるのでしょう。良い知恵を貸して欲しい」と語っている。

その記事のコピーを、私は2018年3月14日に雀さんからもらって引き出しにしまっていて、昨年、何かの探し物をしていた途中で見つけた。

雀ノートを保管しているのは、住まいからは遠いが私にも関係のある建物で、たまに出入りする場所でもあった。だからノートをどう扱うかは自分にも問われているような気がして、ここ数年ずっと気になっていた。ただ、相次いで両親が他界して私と家族は相続関係や遺品整理に追われ、引越しと新生活の準備もあって、またたく間に月日は過ぎていった。

2019年秋、私は新しい街で暮らし始め、古民家の土間のスペースで一坪のお店を開いた。喫茶店ではないしたまにしか開けないしょぼい店だけれど、ことあるごとに、珈琲店『力雀』の風景が浮かび、「雀さんは44年もよくお店を続けられたもんだなぁ」としみじみ思った。

ある年、ある日の雀ノートに貼られていた、お客さんが撮ったというスナップ(写真の裏の日付は2005年6月)。

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中央にあるのが、過去の雀ノート(大学ノート数冊をまとめて保存版にしたもの)だ。

それらは今、一時保管場所から、何度かに分けて宅配便で送って、私のすぐそばにある。(下の画像は私の家)

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これらを段ボールから出して、中を開くまでにとても勇気が要った。仕事が立て込んでいる時、頼まれている用事がある時、「これが終わったら取り掛かるから」と自分に言い聞かせてきた。

誰にも頼まれていないし誰も待っていないのに。

私にお店を紹介してくれた連れは、インタビューの仕事をしている人なので、雀さんは彼に45年目の節目に取材されることを望んでおられた。けれど「親しすぎると感情がややこしくて、改めて話を聞くことがなかなかできない」と本人は気乗りしない様子だった。そうこうしているうちに、雀さんはもう話を聞けない場所へ行ってしまった。

そういえば、母が末期ガンになりホスピスに移った時に、私は姉と交互に通った。母の横で仕事をしたり、希望するかき氷を作って一緒に食べたりしたが、残りわずかな時間と知りながら、改まって感謝の気持ちを伝えることもなく、最後まで普通に、飄々と母と会話をした。最後の日も、姉と二人で簡易ベットに寝て漫画を読み、くだらない話をして眠った。そして朝になって仕事をしに帰り、入れ替わるように病室に兄がやってきて母に語りかけた途端、頷くようにしてから逝ってしまったのだという。

だから、近い人ほど特別なことをできない。案外そういうものなのかもしれないとも思う。

私はもともと喫茶店などでお客さんノートを見たりするのが好きだし、時々、胸を打つ言葉やハッとする話が綴られていることもあり、お客さんノートには、誰かの生のドラマを想像できる何かがあると思う。

70年代から40年余りにわたる貴重な現代風俗の資料をこのまま「保管」しているだけではもったいない。ノートにはお客さんからの手紙なども貼り付けてあったり、住所や電話番号を書いている人も多いので、そのままスキャンして電子書籍化することは問題があり、作業量としても今の私にはできない。けれど、いつの日か個人情報を保護した上で、データ化して広く共有できるのかもしれないし、この膨大な年月の証を、いずれ店の関係者でない誰かの手でもいいので何かに役立てて欲しいとも思う。雀さんが望んだように永久保存するにはどうすればいいか、それを考える最初の一歩として、客としては縁の薄めの私だからこそ、できることをしてみたい。

力雀ノート、No.167を開くと、1ページ目に、ある方がこんなことを書いておられた。

誰もが人と少しだけ交わり、誰かと、人生を少しだけ共有しながら、やがて、誰かを通した自分になっていくのかもしれませぬ…そんな12月の初めなのです

この記事を書いたのは、予告しなければ途中でくじけそうだからという単純な理由と、お店のことを今も気にかけておられる方に届くといいなと思って。

同じく今も保管中の、お客さんを撮影したポートレイトは「必ず取りに来ると言って、来ない人がいるのが残念」と2011年のインタビューで雀さんも気にしておられたので、ネットの力を借りて被写体を見つけて届けたい気もするけれど、写真を載せるわけにもいかないし、何より保管場所で写真やネガの山を見た瞬間、まず無理だろうなと。だからせめてノートの方だけでも…

時代によって店内に流れる曲や客層も変遷する中、変わらずカウンターの中に立ち続けた一人の女性と、ともに生きた三代の猫さん、そして路地裏の店を訪れた様々な人たちの44年分の実りがここにある。それらはきっと、直接お店を知らない人にも親しみのあるものだろう。だって、もともとお店に置いてあるノートに書いてあるのは、ほとんど見知らぬ人の話ばかりなのだから。

今年の秋頃を目標に、営利目的で制作するわけじゃないのですが、印刷費と少しだけ経費を足して本(44年分のノートの何か形にしたZINE)を販売できるようにしたいです。その先、今の状況が落ち着いたら、阿倍野付近のどこかでハニホ堂としてか、力雀ノート展示(保管している全てを閲覧できるように)&ポートレイトお渡し会としてか、個展のようなものをしたいとも思います。いずれまたお知らせしますので、喫茶店のノートの世界にご興味ある方やお店のことをご存知の方は見守っていてください。

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追伸:ヘッダーの絵は、「力雀ノート」に使われた歴代大学ノート風のもの。表紙にイラストや写真が貼ってあり、デザインが隠れてしまって見えないためイメージです。現物の写真を載せたほうがいいのだけれど、私物化することと一線を引く必要があり、ヘッダーは自作の絵に。内容を伝えるため、本文には一部ノートから引用や画像掲載しました。