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ティンカーベルの錯覚

端的に言うと、「おとなしくすごせ」と言われている。
誰にって、医者に。

仕方がないので言うことを聞きながら、ふらふらと過ごしている。
なんていうか、ささいなことで自己肯定感を上げることには、この1年長けたような気がしている。
もしかしたら、もうなんでもいい、と思っているだけかもしれない。
スガシカオが「ごめんなさい なんとかなると思っちゃう」と歌っていた、あの感じ。
わたしあれ、好きなんだよなァ。

最近は、余裕があると誰かのnoteを読んでいる。

かつてほど、noteの村とか街感というか
誰かと繋がるということの、色濃さは感じていない。

何か埋めるべき寂しさとか
誰かに必要とされたいだとか
または誰かのためだとか
そういう感情は、わたしにとっては希薄なものだった。

もちろんそれは、最低限の愛情によって成り立っているもの、ということにも気づいている。
話を聞いてくれる友達がいたり、
日々の押されるハートマークに抱かれながら生きている。とも思っている。
ただ、相も変わらず「好きなもの」を中心に暮らしているだけで

それでも、Twitterにタイムラインがあって、そこに言葉が行き交うように
noteでも誰かのエッセイやおしゃべりが、日夜流れてくる。
わたしはそれを読む。

誰かの、ふつうの話が好きだった。
それはもしかしたら「自分だったら書かないな」という内容かもしれない。
でも、読むのは好きだった。
その先の温度
勝手に会ったような錯覚。

小説のような起承転結もオチもない
「なるほどな」と思うこともあれば
少し遠い感情で「へえ」と思うこともある。

ただ、そういう誰かの日常を
そう、「覗く」みたいな感覚が、良いのだと思う。

例えば向こうのベンチに座っているあなたの
すれ違った電車で反対方向に向かうあなたの
ほんとうはすれ違わない人生たちの

そういう温度の波に流されながら、小さく旅をしているような錯覚に陥る。
ティンカーベルみたいな小さな妖精になって、ぴゅうと飛び回りながら誰かの日常を覗く。
その妙に心地の良い波に揺られながら、わたしは今日も静かに、ここに座っている、





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