ティンカーベルの錯覚
端的に言うと、「おとなしくすごせ」と言われている。
誰にって、医者に。
仕方がないので言うことを聞きながら、ふらふらと過ごしている。
なんていうか、ささいなことで自己肯定感を上げることには、この1年長けたような気がしている。
もしかしたら、もうなんでもいい、と思っているだけかもしれない。
スガシカオが「ごめんなさい なんとかなると思っちゃう」と歌っていた、あの感じ。
わたしあれ、好きなんだよなァ。
*
最近は、余裕があると誰かのnoteを読んでいる。
かつてほど、noteの村とか街感というか
誰かと繋がるということの、色濃さは感じていない。
何か埋めるべき寂しさとか
誰かに必要とされたいだとか
または誰かのためだとか
そういう感情は、わたしにとっては希薄なものだった。
もちろんそれは、最低限の愛情によって成り立っているもの、ということにも気づいている。
話を聞いてくれる友達がいたり、
日々の押されるハートマークに抱かれながら生きている。とも思っている。
ただ、相も変わらず「好きなもの」を中心に暮らしているだけで
*
それでも、Twitterにタイムラインがあって、そこに言葉が行き交うように
noteでも誰かのエッセイやおしゃべりが、日夜流れてくる。
わたしはそれを読む。
誰かの、ふつうの話が好きだった。
それはもしかしたら「自分だったら書かないな」という内容かもしれない。
でも、読むのは好きだった。
その先の温度
勝手に会ったような錯覚。
小説のような起承転結もオチもない
「なるほどな」と思うこともあれば
少し遠い感情で「へえ」と思うこともある。
ただ、そういう誰かの日常を
そう、「覗く」みたいな感覚が、良いのだと思う。
例えば向こうのベンチに座っているあなたの
すれ違った電車で反対方向に向かうあなたの
ほんとうはすれ違わない人生たちの
そういう温度の波に流されながら、小さく旅をしているような錯覚に陥る。
ティンカーベルみたいな小さな妖精になって、ぴゅうと飛び回りながら誰かの日常を覗く。
その妙に心地の良い波に揺られながら、わたしは今日も静かに、ここに座っている、
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