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金魚鉢の猫

書いていたエッセイを消した。

見栄を張った。
消すことすらできなかった。
ただ、着地できなくて、もうできるような気もしなくて、そっと閉じた。

ぼおっとメモ帳(いつもエッセイを書いているメモアプリ)を振り返ったら、書きかけのエッセイがいくつかあった。
むかしみたいに逐一へこんだりしなくなったけれど、そういう時期らしい。

すっかりやる気を削がれ
でも、今日の分を書かないと、と思いながら重い腰を上げてパソコンの前に座る。

すぐに書き出す日もあれば、そうでない日も多くて
そういうときは、誰かの言葉読む。
ツイッターか、noteか

気づいたら自分より年下の子が増えた。と思ってから、もう何年も経ってしまった。
自分の年齢から、なぜだか目を背けたくなる。

”言語化”、”細分化”をテーマに生きているのに、「なぜだか」なんて言っちゃって、カッコ悪い。
そーゆーとこだよ、と思う。
そーゆーとこで、そーゆーことだから、目を背けたくなるワケ。
ほんとはわかってンでしょ?

適当にクリックしたエッセイは、30歳の女の子が、華麗な選択について、非の打ち所なく書き上げた作品だった。

ああ、百万倍すごいなあ
アタシの、百万倍。
足元にも及ばないというか、たぶん異次元。
ほんとうは、足元に並ぶ気のない、”そーゆーとこ”だよ。

人は、生きたい世界で生きられる、という。
それは綺麗事かもしれない。
でも、「なりたいものになれるのは、なろうとしたひとだけ」とか
「環境は向こうから歩いてこない」っていうのは、なかなかに真理だと思う。

そーゆーこと、アタシはまだ歩いていないだけ。
ああ、ダメだなァ。というわたしに、安堵しているだけ。


ああ、どうか
わたしがこれから幾つかの夢を叶える日がきても、ダメ人間の代表でいられますように。
落ち込まない人間になるんじゃなくって、落ち込むことと同居しながら暮らせるようになりますように。
どうか、「いやいや同居とか言うなよ、ふざけんな」ってブチ切れる夜が、また、訪れますように。
そういう、人間味溢れたわたしでいられますように。

手に入れることと
失いたくないわたしが
どうか絶妙なバランスで、同居し続けますように。
どうか消えないで欲しい
金魚鉢の猫みたいに、するりとおふとんに潜り込んで、ピタッと寄り添って、もうどこへもゆけない不甲斐ないわたしが
消えませんように。

今日は、バカみたいなことを
祈っている。



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