だからわたしは、線を引く
「だってさあ」
そのあとに続く言葉は、わかっている。
酔っ払って、終電に乗ったとしても帰りが遅すぎるこの男の、口癖だった。
「良いヤツなんだよォ」
*
バカだなあ。と思う。
そして、無責任だなあ。と思い
それが良いところでもあるから困るというか
一概に否定できない。
むかしは、敵キャラの行動が理解できなくて
「なんで世界滅ぼそうとすんの!??」と怒ったりしたけれど
敵には敵の正義と愛があって
純粋な破壊衝動だけで世界を征服するひと(人じゃなくても)は、あまり多くない。
それに気づいてしまったら、やっぱり一概に否定はできないのだ。
でも、何度も言ったよなあ。
バカだなあ。とは思う。
「世の中に、”本当に悪いヤツ”ってのは少ない」
わたしはその感覚と言葉を、大切に抱えている。
不良だって、ダンボールの猫に傘をさしたりするわけだ。
良いところがないヤツとか
世界中の誰にもやさしくしないヤツとか
そういうひとって、本当は少ないのだと思う。
誰かに対しては
何かに対しては
刹那的でも、「良いヤツ成分」っていうのをみんな持っているのだと思う。
人それぞれの積載量とか、外に出る割合っていうのが違うだけで。
だからわたしは、線を引く。
「良いヤツだけど」と言って、次の言葉を紡ぐ。
それでも、許せないことは許すべきではないのだ。
良いヤツだけど。
もし「好きなヤツ」だったら、そりゃあもう何でも投じて抱きしめてくれ。と思う。
放っておけない、というならばそれも仕方がない。
でもそれはきっと、「良いヤツ」かどうかは関係ない。
*
すべてを大切にできないことを、薄情だと思うかもしれない。
大切にできないことが、寂しいかもしれない。
寂しい、という感情もまた
わたしの心臓を容易く支配する。
失うことは寂しい、その瞬間の痛みに耐えられない。
でも多くの痛みは刹那で
そののち長いあいだ共に歩める痛みというのは少ない。
だから、瞬間的な痛みという寂しさで、何かを決断してはいけない。
ということも、常々思っている。
「良いヤツ」と呼ばれる人種は世界に溢れ
「寂しい」という感情はわたしを満たしている
であるならば、支配されるべきではない。
その次の感情、
「良いヤツ」だけど一緒にいる時間は終わり、とか
「寂しい」けど、行かなくてはいけないとか
感情っていうのは案外上辺しか見えていなくて
大切にすべき本音は、皮膚の下に薄く隠されている。
「良いヤツ」という言葉を聞くたびに、思い出す。
バカだなあ、と思う。
君の本音を、僕はまだ見ていない。
まあどうせ、放っておけないんだろうから
ポケットの積載量には気をつけて
大切なものを、取りこぼさないように
※now playing
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