わたしの傷は、わたしのもの
今日の午後、嫌なことがあった。
言葉足らずで、相手に期待して
自分の気持ちをうまく話せなくて、「もういい」って投げ出した。
それは、投げ出したとも言えるけれど、「最初に掲げた目標」には忠実だったから
投げ出したのは「理解されること」であって、業務は遂行した。
結果、自分の不甲斐なさで傷つけて、傷つけられただけ。
傷つくのが得意で、自分の痛みを話すことは得意ではない。
だから先に「傷ついた」と相手に言われてしまうと、その事実に「ごめん」となってしまう。
「わたしも傷ついた」と言えたらよかっただろうか。
それは、本当に「よかった」なのだろうか。
言ってしまうことは、こちらの自己満足ではないだろうか。
話してわかりあうなんていう理想的な現実は、コストがかかりすぎるから、理想なんだと思う。成功率も、高いとは限らない。
そんなふうに「こちらが悪かった」「自分が我慢すればいい」ということのほうが自己満で、相手を信用していないこと。
理想はいつも綺麗で、手を伸ばすことすら諦めたくなる。
そうやって自分のせいにし続けることを、「宇宙に空気がないのも自分のせいにするつもりか」と叱られたときには、何も言い返せなかった。
何も言い返せず、水に流すこともできない自分こそが悪なのだと、
でもどうしようもなくなってベッドに逃げ込んで、8時間経つけどまだ胃が痛い。パソコンの前に座れず、ソファーに転がってこの文章を書いている。熱も少しずつ上がっているのがわかる。まもなく37度。
世界もわたしも、何にも正しくない。
だからこそ、ときにはそのままでよいとしてあげたい。
傷つくのも、わかりあうことから逃げて、胃が痛むのは自業自得だとしても。
それそのものを、正解になれないことを、悪いことだって、責める必要はない。ということにしようと思う。
まだ受け流せないし、うまく話せないし、しばらく胃は痛いと思う。
痛みは、忘れたら同じことを繰り返す。
そうだとしても
「そんなにひどいこと言った?」と問われると、
「そんなことで傷ついてごめんね」って笑うしかないけれど
わたしの傷は、わたしのものだから。
何に怒って、何に傷つくかはわたしが決めるから。
痛い思いをさせてごめんね。
わたしも、痛かったよ。
君は知らないままで、いたとしても
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