見出し画像

右肩上がらない世界

手荒れがひどい。
確認してみたら、もう3週間くらい引きずっていた。

不調は、右手と口に出る。
ここ何年か、ずっとそう。
自分で激しく思い当たることがあるわけでもなく
それでも、何かあると訴えかけてくるのは、右手と口だ。

右手の不調は、一進一退を繰り返している。

昔は、決まったシャンプー以外使えない
他のシャンプーを使うとすぐに手が荒れる、という体質だった。
もちろん、食器を洗うときのゴム手袋は必須。

何年か前からそう言ったことはなくなり、
好きなシャンプーを使うし、
友達の家に泊まっても、シャンプーで手を荒らすことはなくなった。
食器洗いの洗剤を肌にやさしいものに変えて、ゴム手袋も卒業した。
ここ数年の出来事だ。


それにしても、今回の手荒れはひどい。
よくなったと思ったら、血が滲んだりしている。
いくら肌にやさしい洗剤でも、じんわりと染みるのを、無視できなくなった。

今朝、久し振りにゴム手袋を使った。

お守りみたいに、置いてあったやつ。
しばらく使ってなかったけど、捨てることができなかった。

(ああ、またここに戻ってきちゃったな……)

ゴム手袋のごわごわとした感覚を確かめながら、
悔しさに似たものが、こみ上げてきた。
せっかく、ゴム手袋がなくても大丈夫な人生を送れてたのに、と。


なんとなく、物事は右肩上がりになっている、と錯覚してしまう。


いや、錯覚ではない。
期待をしてしまうのだ。

冒頭で、「右手の不調は一進一退を繰り返している」と、自分で言ってた。
だから、わかっているんだけど。
わかっているはずなんだけど
今日より明日、よくなっていると
心の何処かで願ってしまう、期待してしまう。

右肩上がりにしかならないこともある。
例えば、このnoteの更新本数とか、YouTubeの再生回数とか
そういう、「基本的に数が増えていく仕組み」のものは、
過去に更新した記事や動画を削除しなければ、速度はどうあれ、伸びていく一方だ。

そしてそうじゃないものも、たくさんある。
どんなに強い人でも負けることはある、猿も木から落ちる
毎日料理をする人も、失敗することがあるかもしれない。
わたしが、昨日より良いピアノが弾けるようになっているとは限らないし、
そもそも「良いピアノ」の定義もよくわからない。

練習は、すればするほど失敗が怖くなったりすることもある。
確率で言えば、失敗しない確率が上がっている。と、”信じたい” または、”信じることができるか”という世界な気がする。
「本番」と呼ばれるステージには、だいたい魔物が住んでいるし
あれは、何百回やっても平常心ではいられない。


それでも、
「あのころのわたし」のままではない。

悔しいけど、あんまり認めたくなかったけど
早めにゴム手袋を使えばよかった。
そうすれば、こんなに何週間も引きずることもなかったかもしれない。
病院に行こうか悩んでいるあいだに、ゴム手袋をすればよかった。

昔よりピアノがうまくなったかどうかはわからないけど、
毎日弾くようになって、ピアノとは仲良くなれたような気がする。
それでも、「好きなピアノ」とわたしが断言できるのは、「過去わたしが好きだったピアノ」のままで
何も進化できていないのかもしれない。


それでも、
「あのころのわたし」のままではない。

何度も、確認をする。

物事は一進一退を繰り返す場合がある。
「元いたマスに戻る」みたいなコマがあるかもしれない。
でも、ここまで歩いてきたわたしはやっぱり、「あのころのわたし」じゃない。

毎日を積み重ねて、
状況こそ「一退」しても、歩き続ける術を、きっと手に入れている。
ずっとのぼりつづけることが、美しさや正義ではない。

一進一退を繰り返し、絶望を溜め込んでいた頃のわたしとは、違うのだから。
少し足元がぬかるむような日々が訪れたって、焦ることはない。

踊ったり、うたったりしながら、あたたかいお茶でも飲んで、もう一度乗り越えてゆく。乗り越える術を、あの頃より抱えている。

そんなおとなになりたいと、思っている。


photo by amano yasuhiro


※(関連リンク)うちの食器用洗剤

※(関連リンク)良いピアノだと思ったら、原点回帰だった作品


スタバに行きます。500円以上のサポートで、ご希望の方には郵便でお手紙のお届けも◎