見出し画像

おねえちゃんばっかり

仕事が終わったあとは、定期的に喫茶店でコーヒーを飲むようにしている。
心の洗濯だ。
喫茶店って、どうしてこんなに大好きなんだろう。
自室のベッドより落ち着くかもしれない

定期的に喫茶店に行く、
そのうち何割かは駅ビルを徘徊するようにしている。
これもどうしても元気になってしまう本屋に立ち寄って、
何も買わなくても雑貨屋をのぞいたりする。
きらきらするものを見るってのも、心に良い。

今日は、そのコースだった。
きらきらしている雑貨屋にふらりと寄って、
別に何を買うわけでもなく、ほんの数分うろついて、店を出るときだった。

「おねえちゃんばっかり、ずるい!」

幼い、本当に幼い男の子の声だった。
わたしは立ち止まりも振り返りもせず、自動ドアをくぐり抜けた。

果たしてそうなのか?

振り返らなかったので、男の子が誰といたが知らないけど、
親に欲しいものを買ってもらえず、でもおねえちゃんは買ってもらえるのだ
というシチュエーションを咄嗟に思い浮かべて、そう思った。
果たしてそうなのか??

ほんとうに、おねえちゃんばっかりずるいのか?

おねえちゃんには何かを買ってもらえるのだ理由があるのだろう、と思った。
それは、おねえちゃんが何かを頑張ったから。というのが、いちばん正当な気がする。

おねえちゃんだから、という理由もあるかもしれない。
わたしは兄と年がひとつしか違わないので、お下がりっていうのはあんまりもらったことがないのだけれど
もし、兄と年がもう少し離れていたら、習字道具も中学のジャージもお下がりだったかもしれない。
実際わたしは、隣の家のおねえさんの体操服を持っていた。
(洗濯に出し忘れ、着れる体操着がなかったとき隣の家に走って借りたことがある)

理不尽かもしれないけど、それもやっぱり理由だ。

どうしたあの子ばっかり、ていうのは今でも思ってしまうことがある。
あの子ばっかりかわいいの?お金持ちなの?
その理由が、親が美男美女だから、親がお金持ちだから、っていうのもやっぱり理由だ。
どれだけ理不尽であっても

漫画を描くことやギターを弾くことでお金をもらっていた友人のことも思い出す。
やっぱり、彼女はずっとペンタブを握りしめていたし、彼はギターを抱えていた。
それが才能?そうだろうけど、わたしはやっぱり、奴らより努力をしたなんて、絶対に言えない。
少なくとも、奴らの方が漫画とか音楽とかギターとか、それが好きだったんだと思う。

理由があるんだ。
あいつのほうが稼いでいるのは、あいつのほうが良い仕事を見つけたわけで
それは運か努力か知らないけど、事実そうだし
収入をあげる努力をしなければ、わたしのほうが低所得を続けることになる。
当然だ。

努力をしたのに、というのはまた別の話になるけれど
とにかく、理不尽かどうかはさておき、物事には理由があるんだなあ、と思う。

少年よ、今はそれでよい

でもいつか、そのセリフを言わなくてすむようになるためには、
自分でしっかり稼ぐか、しっかり稼がなくてもすむような相手と出会うしかない。
他にも方法はあるかもしれないけど、パッと思いつくのはこのふたつだ。
そしてこれは、ラッキーによって君の元へ降り注ぐこともあるかもしれないけれど
隣の誰かがそれを手に入れたとき、君は考えなくてはならない。
自分が手に入れるためにはどうしたらいいか
そしてそれは、今持っている何かを「変化」させても欲しいものなのか
考えなくてはならない
そして決めて、行動しなくてはならない。
手に入れるのか、手に入れないのか

そう思うと人生は大変シンプルだ。
努力しても、というのを度外視してこの話をしているけれど
わたしが尊敬したり憧れたりしている人は、やっぱりわたしより努力しているのだと思うのだ、わたしは。

欲しいなら手に入れるための努力をしなけれなならない

あれは、わたしが小学生の頃だったと思うけど
おっさん、覚えてるありがとう
あのミュージカルであなたが、「野球が好きなら、手がちぎれるまでバットを振ればいい」と言ってくれのは
たぶん、このことだったのだ。

たぶん、手がちぎれるまでミュージカルを愛した人から受け取った言葉だ。
ありがとう、誇りに思う。

わたしもまだ、旅の途中

スタバに行きます。500円以上のサポートで、ご希望の方には郵便でお手紙のお届けも◎