抱きしめてから蹴飛ばして
ムカつく連絡がきた。
いやはや、心穏やかではないし、わざわざそんなこと言うなよ。と、お思いになるかもしれないけれど、確かにムカついた。
悪気の有る無しじゃなくて、それでいったら悪意はなくて
強いていうならば、「いつでもいいです」「なんでもいいです」が延々と続いて、全部こっちで決めることになってしまった。いや、いーんだけどサ……それが気遣いなのもわかっているし、ムカついたって仕方がなくて、何にでも合わせられることは長所だとも言える。
とにかく、怒っているバアイではない。
空を仰ぐ。
図書館で、17時過ぎ。
あれこれやり取りをして、執筆も読書も進まず、1時間が経ってしまった。
外が暗いのか、窓が暗いのか、わたしにはもうわからない
「ええっ、いいの? うれしい!!」
別の友達から、明るい声で返信がきて、ほっとする。そして、ハッとする。そう、怒っているバアイではない。わたしのささくれた心は、彼女の言葉できちんと癒やされた。
この話はこれできれいにおしまい、のような気がしたけれど、「いやいや」と首を振る。
これでは、ダメなのだ。
長いあいだ、”良い子”であろうとし続けてしまった気がする。
言葉にすると恥ずかしいけれど、たぶんそうだと思う。
怒っているバアイではない、冷静になれ、生産的に考えろ、やるべきことをやろう、無理をしない。などなど。正しさに対して、誠実であろうとしていた。
それもよかった。よく頑張った。
しかしながらそれは、「自分の心を蔑ろにすること」だと、今ならわかる。よくやく気がついた。
”ムカつく”を”そんなことない”という言葉で、浄化しすぎてはいけない。というか、浄化できていない。
心の排水口は少しずつ汚れ、いつか爆発する。
それは感情であったり、身体であったり、最初は小さな違和感で、白いキャンバスに落ちた、小さなシミ。
気がついたら、黒いシミは薄く広がり、キャンバス自体がグレイになり、やがて黒くなり、シミの存在に”気が付かなく”なる。
シミ自体がなくなっているわけではないから、汚れは排水口に溜まってゆく。けれどもまだ、水が流れているから大丈夫。そう思い、信じ続けてきてしまった。
そこまで、正しさに誠実でなくてもいい。負の感情を、殺さなくてもいい。
何事も、同居することや、理解することが大切なのだと思う。
いますごく、当たり前な、道徳の授業みたいなことを言ってしまっているかもしれないけれど。
ムカつくこと、キャンバスにシミが落ちたこと、排水口が汚れたこと。
ひとつずつ受け止めて、理解して、整理して
なかったことになんか、決してしないで、抱きしめる。
そのあとに、ぽーんと蹴飛ばせばいい。
順番を間違えたり、手順を省きすぎてはいけない。
大丈夫、そのままでいい、ムカついていい、間違えていい、落ち込んでいい。
話は、それから。
それからでも、大丈夫。
というか、それからのほうがいい。
17時30分、わたしは立ち上がる。
このまま帰ろうと思ったけれど、少し散歩をして頭を冷やそう。
そうしたらきっと、本当の”大丈夫”に近づける。それは、さっきのわたしよりも、心地の良い自分だと、いま確かに、清々しい気持ちでいる。
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