見出し画像

最終出勤から、1週間経って思うこと

最終出勤を終えて、1週間。
ひきこもり生活、1ヶ月。

おそらく、ひきこもり生活は向いているので
そんなに苦しくはない、ような気がしている。
そもそも、お休みの日は一日中家にいたいタイプ。

ただ、時折どこかへ行きたい、と思う。
近所の公園とか、海とか、水族館とか
水辺が好きだ。
いまは、近所の川のまわりを、ぐるぐるとしている。

家族もいるので、そんなに人と話していない、
人との接触に飢えているというわけでもない。

いやでも、もしかしたら飢えているかもしれない
と思って、友だちに電話してみたけれど
ただただ楽しかっただけで、飢えは感じなかった。
楽しかったから、また電話をしようと思う。

最終出勤を終えて、1週間。
そもそも、長らく会社には行っていないし、ふしぎな感じだ。

ふしぎだなあ、と思いながら
どうぶつの森をやったり、いつも通りの家事をしたり、
散歩をしたり、昼寝をしていたら1週間が経ってしまった。

そうして、ようやく理解した。
明日もあさっても、これが続くのだと。

特にいま、「友達と何かをする」という予定が作りづらいので
(と言ってみて思ったけど、電話だってなんだって予定を作ればよかった)
「いつ、なにをしてもいい」という状態が
このあと、しばらく続くのだ。
そろそろ、失業者として手当をもらう準備をする、ということ以外は
特に決まった予定がないのだ。

わかりきっていたのに、ようやくすとんと理解した。
そうだ、明日もあさっても、これなのだ。

毎日なにをするか、自分で決めなくてはならない。

もっと前向きに「あしたは何しよう☆」みたいになればいいのだけれど
そういうのが、自然にできるタイプかと問われれば、そうではない。
「やらなきゃいけないこと」と、
「やってはいけないこと」を作り続けて生きてきてしまった。
「あしたは何しよう☆」になるには、
わたしにとって、きっと努力が必要なことだ。

なにかがぱっとしない、と思いながら一週間過ごしてきた。
そのうちのひとつが、「友達と話していない」ということではないかな
と思って、電話をしてみた。
だけど、たぶんそうじゃなくて。
そもそも、ひとりが寂しいタイプではないのだから。
だれかのため、があんまり得意じゃない。
きみのため、に頑張れることはあるけれど

自分の課題にしていたnoteには、日々少しずつ取り組んできた。
おそらく、書くこと、作ることでしか救われない、と
気づきつつはあった。
だから、毎日の更新をやめなかったし、
必ず、ピアノかパソコン、あるいは両方の前に座ってみた。
10分でも

それでも、なにかがぱっとしない。

それはたぶん、
「一生懸命じゃないから」ではなかろうか。

というのが、わたしの答えだった。

仕事をしているときは、
「わたしの本分は仕事じゃないから」という気持ちで
一生懸命noteに取り組んできた。
必死だった。
仕事が終わって、なんとかコンディションを整えて、
または、整いきらずとも、ピアノかパソコンの前に座る。
「努力」しないとそれはできない。

でもいまは、たくさん時間があって
必死にならなくても、大丈夫になった。

ピアノ日記を続けてきたことで、
少しずつ習慣化されて、重荷でなくなった、という部分もあるので
頑張った自分には、盛大に拍手喝采してあげたい!
努力は、ちゃんと認めてあげたっていいじゃないか。
そういう環境を、わたしは作ったのだ。えらい!

でも、そうなったことで、少しずつ腑抜けて
なにかが違って

こういう、身を切るような文章を書くのは、すごくチカラがいる。
伝えたいけど、できれば書きたくないというか
書かないほうが、「ラク」だと思う。

そういう「ラク」に流れていたのではないか。
「ラク」でも毎日続けよう、とすがってきた、そこから
いま、抜け出すときではないか。

一生懸命、必死に
身を切って、もういやだと思うようなことでも
少しずつ向き合ってみたい。

もちろん、苦しいこと至上主義ではないので
苦しむことが正義とは言わないけど
いままで、体力や時間がなくて向き合えなかったことに
少しずつ、向き合っていくこと。

作ること、書くこと、そのものがわたしを救うのではなくて
その中身を、問うときがきたのだ。

同居人を見ながら、
「このひとは、他人のことを考えていてえらいなあ」と思っていた。
いまでもそう思っている。
「もっと自分本位になればいいのに」とわずらわしく思うときもあるが、
基本的には尊敬しているし、
そう思う自分を、薄情だな、と感じたりする。
その薄情さが、
社会とのつながりの薄さが、
「ぱっとしない」気持ちにつながっている、そう思ったりもした。
それもアリな説かもしれないから、この思いは忘れない。

だけどわたしは、
まず、わたし自身に向き合うこと。

うわずみだけ、上手に掬えるようになった次のわたしは
どぼんと深みにはまって、
わたし自身に、ついに

「これを作っているから、わたしはわたしだ」と思える、なにかを

手に入れる準備をしなければならない。
決して誰も救ってくれない。
何度も助けてもらって、そしてわたしは自分で、掬い上げるんだ。

そんな気持ちでピアノの前に座ったら、会心の一撃が弾けました。
これは積み重ねでたどりついたものだから、うれしいな。


こういうものをたくさん作りたい、と思った。
これはさらっと弾いたけど
「こういうものを」と思った時点で、次の制作は苦しいかもしれない。

それでも、
立ち向かってこそ、わたしなのだろう。

もう一度深く、煙草を吸って
わたしはここから、進もうと思っている。


photo by amano yasuhiro


スタバに行きます。500円以上のサポートで、ご希望の方には郵便でお手紙のお届けも◎