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卑屈な暗闇

言葉から、ふっと遠くなる瞬間がある。

きっかけは様々で、
多くは、決定打というようなアクシデントが起こったわけではなく、
ほんの小さなことの積み重ねのように思う。

不思議なことに、それは良いも悪いもあまり関係ない。
体調が良いときも、悪いときも
昨日書いたエッセイの出来が良くても悪くても

その足音はいつも、真隣にあるのだろう。
それが定期的に、首筋を撫でるような距離で聞こえてくる。
もしかしたら、聞こえてくるような気がするだけで
足音はすべて、錯覚だということにも気づいている。
都合の良い、または悪い錯覚。

足音はしばらく強く鳴り響き、
半日くらいで遠くはなるけれど、それを過ぎてもぼんやりとしている。

今日も、そういう日だった。
もう慣れたもので、のんびりしていた。
日中に家事をすませて、換気もして、始まった春アニメをいくつか見て、ベッドに積んだ本を読み進めて、メルカリで売れた商品をPUDOに押し込んできた。
これだけ書くと、なんだかまっとうな人間の悪くない怠惰な休日みたいだ。

わたしが人生でまっとうであったことなんて、一度もない。
アウトローで世間から外れた存在かと言われればたぶんそうではないけれど、いつも誰かと何かを比べて、足りないところばかりを比べながら暮らしている。
卑屈な、成り損ないの物書き。

いま、自分を「物書き」と呼べるのは
それでも、他の事柄より物を書くことには人並みに取り組めている。ような気がすることだ。
社会人、とか、フリーター、というのもおこがましい。
いまの自分の身体では、うまく家賃と食い扶持を稼ぐことすら難しい。
それでも書いているのだから、もういっそのこと「物書き」でいいような気がしてきている。

どうしたってそんな卑屈な言い回ししかできないんだ、と思われてしまうかもしれないけれど、誰にだってそういうときがある。
他の人はわたしよりまっとうなので、そういうことをエッセイに書かないだけで。

人を救うのは、光だろうか。

光に救われることがあるのと、当たり前に、同じくらい、暗闇に救われることもあるだろう。と思う。
光は強い。
目を焼かれてしまう、と思うことがある。

暗闇に焼かれることはない。
囚われることはあるけれど。
そして、隣の世界の暗闇の色と、自分の世界のその色を比べて、安心したり救われたりする。

もう2年ほど前のような気がするけれど、1週間の暮らしをメモしたGoogleカレンダーを公開したことがある。
当時は無職で、どうしようもない暮らしをしていた。
それでも、わたりなりにまじめに動いた部分だけを切り取ったはずなのに、よく寝ていた。
「君が、たくさん寝ていたり休んでいたりしたのを見て、安心したよ」と言われたことを覚えている。
この言葉はいろんな意味で受け取ることができるけれど、友達が救われたというのならば、それが無二の事実ということにする。

言葉から、ふっと遠くなる瞬間がある。

物を書くこと以外、人並みにできないというのに、書けなくなってしまう。
いや、違う。
書けないのではない。書こうとしたくないだけだ。

どうしても、書きたくない夜がある。

こちらのほうが、ずいぶんとしっくりくる。
書きたくない。そしてその強い意志を、殺したくない夜がある。
そしてそのまま、意志と添い寝をして、飽きて部屋を出ていくのを待っている。
そのあいだにアニメを見たり、掃除をしたりしている。
ただ、それだけのことだった。

ときどき、自分がどうしようもない奴だ。ということを確認する。
卑屈でもなんでもなく、事実として。

本当に悪いやつが存在しないように、
悪いところがないやつも存在しない。
(だから何かあったときに、「あいつも良いところあるから」などというのを盾にするのは勧めない。本当に、すべてが悪い部分でできてるってやつに会ったことはないし、そもそも悪さを綿密に定義づけできるまっとうさを、わたしは持ち合わせていない)

良いやつでも、悪い部分や失敗するときがある。
それだけの話として、わたしは卑屈なわたしと長いこと同居を楽しんでいる。
たぶん、卑屈がわたしがいなかったら書いていなかっただろうし、もうちょっとまっとうな人生を歩んでいたけれど、別にまっとうになりたいわけではなかった。

書きたくないなあ、と思っているうちに、冷蔵庫のミニシュー16個を食べきってしまった。
面倒なので、食べ過ぎたことを咎めたりはしない。

明日は少し、遠回りをして帰ろうと思う。





※満腹、というのも難しい感覚だ。


※now playing




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