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左肩を、世界にひとりあなただけ

 人は、言語を用いればわかりあえる。
 と、信じていた。
 それは今より十年以上むかしの話で、わたしは「話あえばわかりあえる」人生を送ってきていた。
 逆をいえば、わかりあえない人を、除外しながら生きてきたのかもしれない。

 その、「わかりあえない」現場を目撃して、それはぐうの音も出ないほどストンと、「言語や情熱を以てしても伝わらないことがあるんだ」と知った。
「もっと頑張ればよかった」とか、そういう次元ではなかった。
 人生には、「わかりあいたくないこと」や、そういうふたり、環境が存在するのだ、と。


 同時に、祖母のことを思い出す。
 大学に行ったわたしが、当たり前に静岡に帰ってきて、当たり前に結婚して子供を生むと信じていた人。そしてそれが、わたしの幸せだと疑わなかった人。
 わたしは、話すことも、許されることも諦めた。

 結婚することとしないこと
 地元で暮らすことと暮らさないこと
 どちらが幸せかというのは、未だにわからない。
 わたしは、結婚せずに東京にいる。
 わたしは、わたしの幸せを信じて、ここにいる。
 今思えば、祖母の言い分もわかるというか、そういう幸せもあったかもしれない。
 けれども、その幸せを手に入れるくらいならば不幸になったほうがマシというと乱暴だけれど、心からそう思っていた。わたしにとってはそうだった。そしてたまたま、四十を目の前にしてもその考え方は変わっていない。
 わたしは、わたしの不幸を謳歌するのだと。
 そして、誰かにとっての幸福は、誰かにとっての不幸であり、決して押し付けることはできない。

「不幸になる権利もある」
 わたしは、母親にそう言われて育った。


 友達が、不幸の道をゆこうとしている気がしてならない。
 それは、彼の望みから遠ざかっているような気がしてならない。もっと近道とか、気をつけるべき点があるような気がしてならない。
 けれども彼は、幸福を信じて進んでゆく。
 その先には、彼には彼の成功体験があって、「前にうまくいったからきっと大丈夫」と信じている。
 それもそれで尊いことだとは思うけれど、「今向かうならばそっちの道じゃないよね?」と、わたしは思う。
 彼は、彼の道を信じていて、一点の曇りもなく、迷ってもいないので相談もしてこない。
 わたしはそれを、少し遠くから見ていることが、歯痒くてならない。
 幸福の形は異なる、わたしの口出しこそ、彼を不幸にしてしまうかもしれない。どちらも試せなければ、結果もわからない。
 というか「疑わない」時点で、もういかんともしがたいのだ。「疑わない」ことは凶器であり、狂気だ。わたしも、ゆめゆめ忘れてはならぬ。
 だからわたしが信じている「しあわせ」こそが、やはり彼にとっての不幸かもしれない。と、疑うべきではあるけれど、
 そうしてしばらく、ぐるぐるしている。

 結果として、彼が自身を疑い、相談してくるまでは手出しはできないのだ。

「それはもうね、唇を噛んで見ているしかないよ」

 友は言った。
 わたしと彼をよく知る人で、「ちょっと愚痴ってもいい?」と言ったら、快く頷いてくれた。
 そして友は、正しかった。
「彼は、その先の成功体験を知っているからね。疑わず進んでゆくだろうよ。例えその先が、絶壁だとしてもね」
 そして、「本当の絶壁」かどうかは、未来でしかわからない。
 わたしが、「静岡で結婚して子供を生む未来」を体験していないから語れないように。

「気持ちはわかるが放っておくしかない」ということを、友は丁寧に語ってくれた。
「もし、周りが愚痴をいうならば、しっかり聞いてあげるといい」
 それが、わたしにできることだと言った。
「もし、愚痴を聞き疲れてしまったら、いつでも電話してきなさいよ」
 その声は、ぐっと強く、わたしの左肩を掴んだ。
 それは、本当は叫び出したかった、わたしの身体を優しく包んで、静めた。

「わたし、ほんとはね。
 危ないと思っていることとか、話したいことがあるとか、幸せになってほしいとか、
 そう思っていることを、世界中の誰かに知っていて欲しかっただけかもしれない」

 もう、いかんともしがたいことはわかっている。
 疑わない幸せは、それ以外のすべての道標を跳ね除ける。そして、その先にしかない結末を手に入れる。
 そっちは危ないよ、わたしはいつでも助けたいよ。本当は、そう思っているよ。君に、傷ついてほしくないって。やさしく生きてほしいって。
 わたしは、願っているよ。
 そのことを、

「そうか……うん、わかったよ」

 友はしっかりと頷いた。
 そして、友がくれた言葉を、もう一度抱きしめた。いまは、見ていることしかできない、と。
 今日も、わたしの思いが「勘違い」なんていう笑い話の結末を迎えることを、夢見ながら。


 人は、言葉を用いればわかりあえる。と、信じていた。
 そしてわたし今日も、すべての親愛なる人の幸福を願っている。

 幸福を願う、というのも身勝手な行為だということにも気がついている。
 すべての人が、不幸になる権利を持っている。

 親愛なる人の未来が、健やかであることを願っている。
 あなたが深く傷つかないことと、誰かを傷つけてしまわないように。
 あなたはきっと、傷つくことよりも、傷つけてしまう方が苦しいだろうから。
 そんなことよりも、真摯に生きられないことのほうが苦しいだろうか。わたしには、もうわからないけれど。

 願っている、健やかなる未来を。

 そして願わくば、言葉を交わしながら共に、おとなになってゆきたい、と。
 今でも変わらず、綴りながら。


※now playing


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