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キッチンの換気扇の下、煙草を吸いながら

ずたぼろだったあのころのことを、あんまり思い出したいとは思えないままだけど
あの時期に於いても大切な記憶っていうのは幾つかあって、苦味と一緒に時々噛み締めている。

あのころ、
動かない右手を許せず、はっきりと当たり散らすこともできず、もやもやと過ごしていた。
許せないのは、右手じゃなくてわたし自身だったのだと、いまでは思う。
そしてそれは、しかたのなかったことだ、と。
幼すぎたし、苦しすぎたし、実際のところ不便すぎた。

家の外ではそれなりにしゃんと過ごしていたわたしが、弱さをぶつけて甘えてしまったのが、当時同居していた家族だった。

わたしたちはありとあらゆる話をしたし、
わたしは言い訳ばっかりだったのかもしれない。
「もうだいじょうぶ」と痛みのひいたはずの手が、また激しく響くたびに絶望していたのだから、もう何も言えない。
あのころわたしは「物事は次第に、上向きに良くなる」と信じすぎていた。
怪我でもなんでも、状況っていうのは一筋縄ではいかなくて、上がったり下がったりするものだった。
なんていうのは、今になってようやくわかることだった。

そんなときのことを思い出したくはないのだけれど、いまでも覚えている言葉がある。

わたしは、苛立って怒っていたはずだった。
でもそれをぐっと飲み込んで、どうにか平気な顔をしようとしたのに対して、その人はよく怒る人だった。
きちんと、怒れる人だった。

「その人が、何に怒るのかを知りなさい」
「きっとそれが、その人にとって大切なものだから」

ハンターハンターのミトさんがそんなようなことを言っていた、と彼は言った。
まあ、ミトさんが言ったならそうなのかもしれない。と、今ではそう思っている。

記憶に残る言葉のいくつかは、「受け止めきれなかった言葉」だと思う。
そう言われても、って、当時は理解できなかった言葉のひとつだから、いまでも時々取り出しては、眺めてみる。

わたしは、よく怒る人だろうか。

周りからは、そう思われていないといいな、と思う。
「明るく元気に」がモットーだから、社会とは基本的にそう接するように努めている。

ごくごく身近な人ならば、わたしのことを「よく怒る人」と言ってくれるかもしれない。
怒鳴ったりするわけじゃないけれど、わたしは時折はっきりと「許せない」と言う。
キッチンの換気扇の下、煙草を吸いながら。

怒りというものは90秒しか持続しないらしいし、「明るく元気なわたし」が、寝て起きるといろんなものを破壊していってしまうから、けっこうすぐに忘れてしまうんだけれど。

わたしは、何に腹を立てていたのだろう。

今日は、そんなことを考えている。
あれはきっと、大切なことだったはずなのに、今では思い出せない。
“なぜ”の部分が、わからない。

きっとそれは、わたしの生き方に触れる何かのはずなのに、日頃抱えている感情だけでは拾いきれない。
怒ったとき、にしか出会えないわたしが、いるような気がしている。

今日は考える夜だ、と思って言葉を綴ってみたけれど、
そういえば過去のエッセイで、「ハンターハンター」「ミトさん」のタグ付けをしたような記憶があるから、この話は二度目か、もしかしたら三度目かもしれない。

大切なことなのに、まだ理解できないから何度でも考える。
いつもじゃなくても、ずっと。

わたしは、わたしの大切なものを、探している。





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