日記2020/06/12「わかってる、わけじゃないかも」

▼深夜の公園でこれを書いています。今晩はイヤホンからは穏やかでお洒落な音楽を流しているけど、こういう時って実は曲そのものにしっかり聴き入っているわけじゃないな、と気がついた。どっちかと言えば、少し離れた通りを走る車の、ホワイトノイズじみたささやかなうねりが、絶え間ないさざなみのように寄せて返すその音を、耳を澄ませて聴いているかもしれない。

▼と、ここまで書いたところで「待てよ、それほんとに車の立てる音か?」と無性に気になり始めた。いくら昼間は交通量の多い通りだとしても、こんな田舎町で、金曜の深夜にそれほど自動車がたくさん走ってるんだろうか。いてもたってもいられなくなり、僕は音のする方に向かった。

▼僕のもたれていた自販機から表通りまでは徒歩5分もかからないけど、やけに遠く感じた。ドキドキしながら歩くと何故か思うように距離が縮まらなくて、自分の速さがもどかしくなる時がある。もしくはひとりで昂りすぎて、勝手にもどかしさを感じている自分をどこか脳の冷めた部分がつぶさに観察していて、そこに対してもどかしく思っているのかもしれない。

▼こうやって、普段は思い到らないような(或いは動作の遂行に不必要だからとあえて無視しているような)自分の観念とか感情に血が巡ってくると、ほんとのことが何一つわからない、ということがわかって、全部がいっぺんにあやふやになってくる。それこそ通りから聞こえるのがアスファルトがタイヤを傷つける音なのか、自分は何をじれったく感じているのか、とか全部。元々わかっていたことなんてそんなに無くて、生活に最適化した結果「それっぽいこと」をたくさん積み上げてきただけの、自分は思い込みで動く生き物なのかもしれない、とすら考えてしまう。
 そうすると今度は「いま普通に息を吸って吐いてるけど、なんでこんなに無警戒に呼吸してるんだ?」と不安になってくる。ここまでくるともう限界で、急に「当たり前に」生きてることがとても危ういことのように感じてしまって、足の裏がふわふわしてくるから、慌てて考えるのをやめる。「それっぽいこと」を蓄積して、そこから漏れた事に鈍感になるのは、「健康に」生きていくには条件なのかもしれない。

▼通りに出た。店舗の車止めのポールに腰掛けてしばらく眺めるけど、信号が大体38秒おきに変わることと、中央分離帯のランプの黄色がやたら目にうるさいことしかわからなかった。少なくとも僕が観察している10分くらいの間に通行する車は3、4台ほどで、寝静まった町に絶えず浅いノイズを響かせる音源のようには思えない。
 定点観測を諦めて、じゃあ結局なんなんだろう、と首を捻りながら元来た道を戻った。少し風が出てきた。早足で歩いていると、耳に嵌めていたイヤホンの右側がずり落ちてくる。
 耳の穴がむずむずするのが堪らなくて、一度外して嵌め直そうとした時、あ、と気がついた。ゆるやかに抜ける風が街路樹の枝を、空き地の草花を揺らす音。僕がずっと探していたのはこれだったのだ。ざわめきに混じって確かにエンジン音も聞こえるけど、イヤホンを外してみると、それはもっと遠くの、昼夜となく人や車が行き交っている国道から流れてきているのだった。

▼きっとこれは、まだ昼間だったら、そうでなくとも町全体が活動している時間帯だったら、わからないままだっただろう。それは音だけの話ではなくて、先に述べた「当たり前」についてもそうだ。そういうものを時々取り除けてみないと理解できないものって、想像できるよりもずっと多いのかもしれない。

▼なんだか妙に満足すると同時に、もしかしたらみんな、こんな事とっくに気がついてるのかな、とひとりで満足している自分がおかしく思えてきて、誰もいない公園のベンチにごろんと横になった。人が見ていないのを良いことに、そのまま徐ろに煙草を吸い始める。のっぺりした星空に煙がすーっと昇っていって、視界いっぱいに拡がって消える。その向こうからまた小さな無数の星が現れる。でも、と僕は思った。この深夜の愉しみをわかってる人はあんまりいないだろうな。

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