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魔法少女はメタルを聴く 第8話「最強の魔法少女……」

それから卒業までは、あっという間だった。
「メイデン、がんばってね。わたし応援する!」卒業式の日、わたしにとって最後となるキャンパスで、レイが言った。「こんなにがんばったのに、ちょっと悲しいけど」
彼女は卒業式の余韻もあって、ぐすっとする。

いかにももっともらしいその台詞を、わたしは複雑な思いで聞いていた。「はは」(おまえは普通に学生生活を満喫しとっただろうが!)
彼女はこの夏に結婚するのだという。相手はもちろん、彼氏インギーである。
そこに関しては以前ほどの衝撃はなく、はいはい、といった感じだった。なんせわたしは抜け殻。そういえば、こいつぜんぜん就職活動してなかったな、そういうことだったのね、と、思ったくらい。
なお、こんなにも覇気のないわたしが就職戦線を勝ち残れるはずもなく、あきらめて、先月、ABZ派遣に登録をしに行った。

「やっぱり、魔法のことは秘密なのかな」レイがわたしに訊く。
「ええ」わたしは力なく答える。
「どんな魔法を手に入れたんだろう」
だから、秘密だって言ってるのに。こいつはぐいぐいと傷口に塩を塗る。「いや、まだ決めてないんだ」
「そうなんだ!」
「ちょっと手続きが残っててね」なんだそりゃ。自分に突っ込む。

だけど、決めてない、のところは本当だ。結局わたしは、選択することができなかった。
どんな魔法を選んだところで、それは、『わたしの四年間は無駄でした』の確定ボタンを押すようなものであり、あるいはディーパさんふうにいえば、『わたしには何もありません』の確定ボタンを押すことでもある。
どうして認めることができよう。
魔法を選択していないのだから、ロウィンのところにも行っていない。リカさんはあれから二度ほど姿を現わしたが、わたしは彼女の呼びかけに応じなかった。荒んだ顔のわたしを見て、さすがに罪悪感を感じたのか深追いはしてこなかった。

「わかった。電話するね」レイが言う。
「うん……」わたしの声に力はない。
「魔法少女になってつらいこともあると思うけど、応援してるから」
「うん」
「魔女と戦ったりするのかな?」
よほど気になるのか、レイはなかなか会話を切ろうとしない。
わたしはそれにも、「うん……」と適当に答えかけて、言葉を止める。「ええ」とはっきり言い直した。
笑いながら去ったリカさんの歪んだ顔、ロウィンのハリウッド並みのホラーメイクがちらついた。
「そう、とびきっり凶悪な魔女とね」

○  ○  ○

なんと対照的なことか。
「無駄なことなんてひとつもないと思う」やさしい表情の彼が言う。

出勤前の貴重な時間にわたしはいる。
うう、時間はないけど、大仰なパワーバラードが聴きたい。
え? 聴くよ、バラード。メタルにもバラードはある。というか、パワーバラードと称するくらいなのだから、それはもうすごい音楽なのである。
メタルの持つ熱量は、どう転んでもその総量が変わらないため、バラードでは大部分が情感のほうにまわされる。情感な、情感。暑苦しいとか言っちゃだめ。
ちなみにわたしが最近よく聴くのは、イングヴェイ・マルムスティーン――レイの旦那がかつて目指していた人――の、「プリズナー・オブ・ユア・ラブ」
直訳すれば、きみの愛の囚人だぜ。きゃっ。
声が高い。さらに高くなる。まだ高くなる? 高音のあまりの美しさに、あたりいったいの浮遊霊が次々と昇天をはじめる(気がする)。

メタルのバラードは美しい。その魅力を言い表すなら、多くのメタルバンドが秀逸なパワーバラードを生み出しているのだが、チャートでそちらのほうがヒットしてしまい、バンドが自分を見失い、長い目で見るとアイデンティティを失って身を滅ぼしてしまうくらいなのである。
――と、そんなことを考えながら、メイクに気合を入れている。

思えば後悔してきた。自分の青春をなんて無駄なことに使ってしまったのだろう、と。ハルキの言葉があそこまで胸に響いたのは、ひとつにはその後悔が根深いからこそ。
だけど、ハルキの言葉を受けて、魔法の効果の大きさは、たいした問題ではないのでは? 微弱な魔法でも何かの役に立つかもしれないと、最近は、そんなことを考えている自分もいる。
そうやって揺れながら、わだかまりが少しずつ溶けつつあるのを感じる。そしてそのとき、こうも考えるのだ。わたしはもう少し他人に優しくなってもいい気がする。すべてを包み込む、彼、ハルキのように。

ふと湧いた疑問。
あれ、わたしにだけ優しいわけじゃない。とか?
いや、確実にそうだろう。
だとしたら彼は――。

つい自分と同じように考えてしまう。
自他ともに認める容姿とスタイル、そこに荒んだプライドが加わることによって発生した不協和音で、わたしに男は寄ってこない。だがハルキは違う。彼は、かなりもてるのではないだろうか。
とたんに津波のような不安がわたしを襲った。

アパートを出て駅に向かう途中、それから電車のなかでも考えた。うかうかしていられない。もっと世界を広げて考えなくては。
社内に、駅周辺に、東京に、女子はたくさんいる。
ハルキはどんな女の子が好きなんだろう。可愛い系だったらまずいな……。
わたしの恰好はすっきりまとめ過ぎてるかもしれない。
彼の好みは、とりあえず背の高くない子、と、それくらいの情報しかない。小さくて可愛らしい女の子の像を、自分なりにイメージしてみる。そうなると、やっぱりこう、全体的にふんわりした感じになるような……。
うーん、わたしには似合わんぞ。

乗り換えのあいま、手鏡に自分の顔を映してみる。
いつもなら、うん大丈夫、きれいよほのか、で終わるところを、ん? と思った。気づきがあったのだ。
わたしの顔は、顎のラインが少々シャープで、目もぱっちりというよりは横長で、女性の顔のなかでも、どちらかといえば、中性的な顔、つまり男性顔に寄っているような気がする。ひょっとして美人というより、男前――?

鏡から顔を離して、またのぞく。ちらちら角度を変えてまたのぞく。よし、今度は他人だと思って見てみよう。
佐々木ほのか、二十六歳。
彼女は、はっとする美人にも見えるし、なんだか可愛げのない顔にも見える。
というよりは、見えた。今日は見えてしまった。
かわいく、ないのかなあ……。こんなふうにして悩むことははじめてだ。電車がきたので中断する。
これはどうしたことだろう――。
わたしは突然、自分の容姿に自信がなくなってしまった。

目的の駅に到着する。わたしは改札を出て、ビジネスエリアへと続く連結通路に向かう。職場のあるビルに近づくにつれ、今度は、これまで気にもならなかったというのに、まわりの女性に目が向くようになった。
へえ、けっこう綺麗な人も多いんだな。そう感じた。
もっと正確にいえば、自分のポジションが相対的に落ちてしまったような感覚。
――あの人おしゃれ。けど、ちょっと背が高いかな。
――スタイルと雰囲気だったら、あんな感じかな。すこし気が強そうにも見える。でも分からない。ハルキはタイプかもしれないし。

そしてさっと脇を見たときに、わたしはびっくりして目がまるくなった。
うわぁ、かわいい! この子、西洋のお人形みたい。
目がぱっちりして大きい。顔の輪郭がふわっとまるくて、口がちっちゃくて。それに、背丈だって低い。
彼女は、ぱっとむこうを向いた。急に相手を凝視して、びっくりさせてしまったのだ。わたしも慌てて顔をそらす。
ふう、わたしはどうかしている……。
手術で急に視力がよくなって、クリアな視界に驚いている人のようだ。普段から、もう少し外界に注意を払うべきだろう。
まあそれはそれとして――、
なに、あんなに可愛い子が、そのへんにうようよしてるわけ!

あせる、あせる。
が、あせってるわりには何の進展も図れないまま、お昼になり、夕方になり、今日も業務が終わろうとしている。
積極的にならなきゃいけないのに、オフィスではむしろ、目を伏せがちになる。距離が遠い。こんなに近くにいるのに。

いっぽうさち子は、今日二回話しかけにいった。ハルキが出てくるのを廊下で待ち伏せしている場面も見た。学校じゃないんだからさ……。なぜ臆面もなくこんなことができるのだろう。徐々に効いてくるジャブのように、差をつけられているのか、それとも、ハルキから相手にされてないと見なすべきか。
正直、彼女は特に可愛いわけではない。
今朝見た女の子とくらべれば、雲泥の差がある。
地味で、無個性。どのクラスにもひとりはいるような、存在感のない子を思わせる。だけど、背丈は150センチ前後、きれいか可愛いかの分類でいえば、後者にはいり、わたしにはないポイントがあることも確かだった。

○  ○  ○

「あら、メイデンから電話があるなんてめずらしいね」
不毛だと分かっているのだが、ほかに相談できる相手もいなくて、かといって、このままでは胸がつかえて窒息死してしまいそうで、あのレイに電話をかけてしまった。重症だ。
「しんじさん、元気?」とりあえずそう訊く。
「うん、元気」
「うまく行ってるのかな」彼女が結婚したのは、わたしが社会人になった年と同じだから、もう四年になるのか……。
「もちろん! ずっと新婚みたいよ」
「ふーん……」
普段あえて訊かない話題を持ち出すのも不自然かと思ったが、彼女に関してその心配は必要なさそうだった。
「わたし訊いたことあったっけ? ほら、レイとしんじさんがつき合ったときのこと」いや、そんなことが訊きたいわけじゃないのだが、口があらぬほうに滑る。「それって、どっちが告白したの?」
「ええ、どっちがって」彼女は当時を思い出したようにもじもじする。「まあ、わたしがさせたのかなあ」
「そうなんだ」訊いておいて、気のない返事をした。
この続きを延々と聞くことになるのかもしれない。わたしが振ったのだから、それもまあ仕方がない。ところが、
「どうして?」
突然の切り返しがきて、驚いた。
「い、いや」と、どぎまぎしながら答える。「わたしもいい歳だし、そろそろ、そういうことも考えなきゃなあって」
「メイデン」
事情を察知したのか、彼女は短く言葉を切る。
は、はい! 思わず姿勢を正しそうになった。
それから間を置いて、たしなめるように彼女は言った。
「運命の人はかならずいるの」
は?
「それは早いか遅いかの違いなのよ。だから焦っちゃだめ」
言葉が徐々にわたしに浸透する。
それでもって、かっときた。
やっぱり、むかつく! なに、その上から目線!
「いや、わたしだっていろいろあるのよ。レイはなんの障害もなく、うまくいったのかもしれないけど」
つい、言ったそばから自己嫌悪する言葉を放ってしまう。「ただ、いろいろ込み入ってて……」
「ふう、魔法少女は魔法少女で悩みがあるのかなあ」
彼女は、はあ、とため息をついた。「わたしじゃ、力になれないのかもね」
くっ、真剣に相手にすると、鬼のようにむかつく。彼女は本物の鉈を、子供のように無邪気にふりまわすのだ。
「ごめん、切るね」
またこのパターンか。電話するんじゃなかった。あとでどういう気持ちになるかくらいわかっていたはずだ。自分に腹がたつ。
電話から耳を離す寸前に、「彼女なら――」ふたたび引き寄せる。「え?」
「彼女なら、メイデンの力になってあげられるのかもね」
「彼女って?」
「ほら、いつかリカさんが言ってたじゃない。よその学校に、最強の魔法少女が現われたって」
その瞬間、脳のひさしく接続されなかった部分に回路がつながる。
そうだ。二年生になったころ、リカさんはわたしたちに向けて告げたのだった。関西の支部に、最強の魔法少女が現われた、と。正確には、その候補と言うべきだが。
いまになって思い起こせば、そこでリカさんと重要な会話を交わしている。

「彼女……、柱にブラック・サバスを選択したのよ」
その瞬間、わたしがアイアン・メイデンを選択した場面のことだとわかった。
ブラック・サバス!
黒魔術、恐竜の地を這う地響きのような音、メタル界の帝王オジー・オズボーン……。
「メタルのはじまり」わたしはつぶやいていた。
「そう、わたしたちにとっては天地創造の神ね」大まじめな顔でリカさんが言う。「こればかりは格が違う」
こうしてわたしの胸に、はっきりとその言葉が刻まれた。
「最強の魔法少女……」

そのころ、魔法少女を盲信していたわたしは、その知らせを強力なライバルの出現ととり、メタル修行にいっそう力を入れたものだった。もっとも、わたしだけが意識していたのだろうけど。
忘れていたのも無理はない。不思議なことに、いつのまにか彼女の話題は出なくなっていた。

いまわたしは、魔法少女の秘密を知っている。だからこそ、サバスを選択したことの意義、彼女の持つポテンシャルの高さはよくわかる。
よって、考えられることはただひとつ。途中でドロップアウトしてしまったのだろう。だいたい、TOEIC600点のラインが、なかなかリアルな数字だ。

○  ○  ○

――さて、会社の親睦会がはじまる。
会場は予想どおり、前回と同じような居酒屋の一角だった。が、今のわたしにとって、ここは戦場。さっと見回すと、人数はまえと同じくらい。あのベンガル嬢さやかは欠席のようだった(関係ないが、彼女は立ち直れたのだろうか)。
飲み会や合コンに慣れていないわたしでも、勝負の重要な局面は、乾杯の音頭の前なのだと分かる。
すなわちポジションどり――。

ハルキが席についたとき、わたしは恰好の位置にいたのだが、がっつくようでみっともないという思いが先に立ち、ためらった。それが一瞬の隙となる。さち子が滑り込むように横をさらった。ふぁっく! しまった、彼女の特技を忘れていた。
じゃあ、その逆サイド。だめ、そこから先は主任以上が座る、上座の領域に入ってしまう。……でも、ぎりぎり行けるんじゃないかな。そう思っているうちに山内がとった。おまえ、平社員だろ!
なんて激しい攻防なのだろう……。

わたしは、ハルキの向かいの横の横という、前回よりも分の悪い陣地に退かざるを得なかった。しかも乾杯がはじまると、本来もっと上座にいるべきおっさんが隣にいて、しきりに話しかけてくる。
なに、この勝負、はじまって10分でわたしの負けなの?
「あきらめたら、そこで試合終了だよ」隣のおっさんが、まったく関係のない文脈でその名言を口にし、わたしは闘志を取り戻した。「そうですね、ありがとうございまふ!」
そうだ、チャンスはまだある。特に酔いのまわる後半。席順なんてあちこち乱れるじゃないか。

――ところが、今日の親睦会はなにやらぎこちない。動きがないというか、はめを外さないというか……。そういえば、役員の人も参加してるんだっけ。派遣社員のわたしはヒエラルキーの外にいるため、まったく気にかけていなかった。どいつだよ、そのハゲ! まあ、ハゲもなにも、顔すら知らないんだけどね。

好機が巡ってきたのは、ほんとうに、宴の終わりの間際だった。さち子が席を立ったのだ。わたしもたまたまおっさんからノーマークになった。しかし、ここでわたしがさち子の席を奪うことは、彼女に対する宣戦布告となる。
いい! かまわない。
さち子の席のほうへと、テーブルを回り込む。わたしは、ハルキの背後から、「なんの話をしてたんですか」と少々強引にいった。この割り込み方はもはや、さりげなくという体裁はないが、酔った勢いで、というふうには映る。
ハルキはいつものように少しはにかんだ顔で、「ああ、音楽の話です」と言った。
「へえ、どんな音楽を聴くんですか」
わたしはさらっと応えたが、内心では、やばいと思った。
この話題はまずいのだ。
こういうときに陥るパターンは、要約すればこう。
〈男〉あのバンドは、ボーカルと詞がいいんだよね。
〈わたし〉音楽はまずリフだろ!
魔法少女の後遺症のひとつ。この手の話題で、わたしが異性にいい印象を抱くことはまずない。ハルキへの気持ちがぐらついてしまうことが、あるいは、反撥する感情が顔にでて、せっかくの会話を盛り下げてしまうことが怖かった。そして、ハルキが口にした音楽は――、ジャズだった。

じゃず? ジャズ? JAZZ? 
わたしにとって、それはあまりに未知の音楽領域で、ただぽかんとするしかなかった。さりげない言い方だが、彼は、「ジャズってけっきょく、自由ってことだと思うんです」と哲学めいたことまで言った。
それは、ジャズを――メタルではない音楽のジャンルを――盲目的に賞賛する言葉に他ならない。だけど、不思議と不快な気持ちにはならなかった。それどころか、ハルキのことがますます魅力的に思えた。たとえメタルの話であっても、レイの彼氏インギーにはあんなにむかついたというのに。
「わたしも今度、聴いてみますね」
素直にそう言えた。
ここで幹事が声を張る。親睦会が終わりの時刻を迎えたのだ。
残念……。けど、これで、いい流れのまま二次会になだれ込める。
ところが会場を出た直後のこと、何者かに、いきなり腕をつかまれる。課長だった。
な、なにごと?

課長の顔を見ると(というか、睨みつけると)、彼は手を合わせかねない懇願する表情をする。「これから、常務と部長と何人かで、二次会に行くことになってるんだよ」
「はあ……」だからなに、と問いたかった。
「それで、常務がきみのことを気に入っちゃってさ」
え、なんでわたしを、と言いかけて、そこであの隣にいたおっさんが常務だと気づく。「で、でも……」
「まあまあ」
「でも……」
「まあまあ」
「で……」「まあまあまあまあ」
課長のサラリーマンパワーは強かった。表面上はわたしに軽く手を添えている感じなのに、その腕力は、肉体をいじめ抜いたプロレスラーのように強かった。そうか、これが出世の手腕なのね! 
意志に反し、強制的に引き摺られてゆく。
ちらりとハルキのほうを見ると、その後ろには、ちゃっかりさち子がいた。被害妄想かもしれないが、わたしのほうを見て少し笑った気がした。
もおおお!
その後、観念したわたしは抜け殻と化し、おっさん連中とタクシーに揺られた。

なお、その時期と前後して、非通知の電話の回数が多くなった。求愛にしては優しくない。
嫌いだ、嫌いだ――。あるいは、
気づいて、気づいて――。そう繰り返しているようだった。

○  ○  ○

さち子の差し入れ作戦がはじまった。
それは、手作りのお弁当ほど露骨なものではなくて、ちょっとしたお菓子であったり、飲料品であったりする。お昼休みの終わりにハルキの席で、「試供品でもらったんです」と彼女が小さく言うのが聞こえた。

わたしにはぜったい無理。それに、相手が困ってたらどうするの? この子の神経がわからない。だけどひとつ言えるのは、思っていたよりもこのライバルは手強いということ。
なお、正社員と派遣社員では、帰りの時間がまったく合わないため、その点は安心もしている。わたしたち派遣は定時の5時半に退社するが、夜の9時、10時が当たり前のハルキに、帰り道、偶然出会うのは無理がある。そこを待ち伏せしていたら、それこそ本物のストーカーだ。さち子ならやりかねない気もするが、そこはまあ、どうぞ自滅してくださいという感じ。

――ところで、その後わたしの側に、画期的な出来事が起こったのだ。昼休みのあの公園で、ハルキと連絡先の交換に成功した。
どうやらハルキは、昼食を駅構内のお店でとることが多いらしく、そういった理由で、ベンチに座るわたしの視界を横切っていたようなのだ。
ときどきわたしは視線を送る。彼は、決まって会釈を返してくれる。わたしの表情の程度によるのか、むこうの都合なのか、ときにはベンチの前に立ち止まってくれる。
「あの……」その日わたしは思い切って、こう話してみた。「わたし、ジャズに興味が出てきたんです。けど、何から聴いたらいいか分からなくて。お店で迷ったときとか訊いてもいいですか?」
例の親睦会からまだ二週間も経っていない。通じるはずだ。
「ええ」
「なので」わたしは携帯電話を取りだした。
「あっ、そうですね」
ハルキも慌てて、上着を探った。わたしの論法はちょっと(かなりかな?)無理があったのだが、彼は空気を察してくれた。

やった……。
やったやった! わたしは小躍りしたいくらい嬉しかった。
こんな日が来ることを夢見て、スマホで連絡先を交換する方法を学んでいたため、実にスムーズにやりとりできた。
ほら、わたしだってやればできるんだから。あのとき土壇場でハルキと音楽の話をしていたから、だから今日の幸運につながった。
その直後のことだった。わたしの向きから、遠くのほうにさち子の姿が見えた。「一本とった」そう思った。親睦会の借りはこれで返した。
気づくのが遅いよ。この場所は譲らないんだから。
わたしが睨むと、彼女は目を背けた。

いちおう断っておくと、ジャズに興味があるというのは嘘ではない。わたしは彼と多くのものを共有したいと思っている。
だが、いっぽうではその音楽を聴くことに躊躇もしてしまう。
というのも、三年以上の月日を費やしてわたしのなかに作ったシステム、言うならば「魔法少女という器」に、どういう影響が表れるのか分からないのだ。
魔法の理論は解明されてないとはいえ、いっさいの軟弱な音を拒絶する、いわばパラノイドに近い精神がそのベースにあることはたしか。しかも、わたしはまだ、使用する魔法すら決めていない身である。
本当は、ジャズを聴いてハルキとの会話を膨らませたいのだが、どうしてもその一歩がためらわれた。

まあ、しばらくは保留でいい。なぜなら、今はどんな音楽も耳に入らないから。
わたしは一世一代とも言えるこの大恋愛に、すっかり夢中になり、また、かつてなかったくらい、忌まわしい過去から切り離されていた。
メタルを聴いてもうわの空、ひさびさに生の充実感を感じる。どんな音よりも熱いものがわたしの胸を満たす。
そうしてこのまま、過去は過去になろうとしていたところ――、

あるお昼休み。場所はオフィス近くの公園。噴水の見えるベンチの前で、ハルキといつものように、つかのまの会話を交わしていたときのことだった。
もちろんわたしは、これが同僚との立ち話にすぎないことは理解している。当然、会話が盛り上がるときもあれば、そうでないときもある。昨日よりも今日、今日よりも明日と、そんなふうに進展するわけでないところがもどかしいところだ。
で、問題のその場面だ。まぶたでシャッターを切ったかのように、わたしの脳裏に焼きついている。
その写真を眺める。ハルキの肩越しに映った人物は、動きがあるためブレている。それが女の子なのはわかった。真っ直ぐに歩いてきて、真っ直ぐに去っていった、わたしの知らない子。
その人影が、ハルキとすれ違う瞬間、たしかにこうささやいたのだ。
「グッバイ・トゥ・ロマンス」と。わたしの聞き違いでなければ。
その瞬間、なぜだかハルキに気づかれたくなくて、わたしは知らぬふりをして、ただちらっとだけ彼女の背中を追った。華奢な後ろ姿だった。スカートは短く、左右にふわっと広がっている。全体の感じでいうと、黒一色にわずかに白の入った配色が、ゴスロリを思わせた。

そして、その後のハルキとの会話は精彩を欠き、わたしたちは、どちらが言うとでもなく別れた。

……魔法少女?

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【おまけ】イングヴェイ・マルムスティーン「Prisoner of your love」

【さらにおまけ】
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