カーテンコール

 日曜日の朝。
 いつものように朝食を食べながらつけていたラジオから、天地真理の『虹を渡って』が流れてきた。
(うわっ、こっ、この曲は…)
弾むようなリズムと、軽やかで明るい天地さんの歌声を聞きながら、私はこみ上げてくる恥ずかしさを、暖かいミルクティと共に飲み干した。
 そうこの曲は、盲学校の中学部3年生の文化祭で披露した音楽劇のカーテンコールで歌わされた曲だった。
 この曲を歌おうと提案したのは、小学部4年生から中学部3年生まで音楽を担当してくださっていたh先生だった。
 h先生は天地真理の大ファンだったらしい。
 今思い返してみても、盲学校というところは、変わった先生が多かったように思う。
 h先生はその最たる例だった。

 私が初めてh先生の授業を受けたのは、小学部3年生の時だった。
 当時の盲学校は、自分のような視覚障碍単一のクラスと、発達や知的など、視覚以外の障碍を合わせ持った重複障害のクラスに分かれていた。
 h先生は重複のクラスの音楽を担当していた。
 その日は私たちの音楽の先生が出張だったため、重複のクラスと合同で授業をやることになった。
 重複のクラスの生徒の中には、一般的な授業を受けることが難しい人も居る。
 そのためh先生の授業も、教科書の内容に沿っていない授業をしている。

 ♪さあさあみなさん、今日も、元気に、楽しい授業を、始めましょう♪

 まず授業開始の挨拶は、h先生オリジナルのテーマソングから始まる。
 いつも「今から音楽の授業を始めます、れい」という号令から始めていたその時の私には、そこからしてかなり衝撃だった。
 続いて発声練習と称して聞こえてきたのが、北島三郎の『よさく』だった。
 ♪よさくは木を切るー♪の『よさく』の部分に、一人づつ生徒の名前を入れて、そこで呼ばれた人が、「へいへいほう」と歌うのだ。
 ♪羽田が木を切るー♪と私の番が回ってきた時、「へいへいほう」と歌うのが恥ずかしくて、どうしても声が出ず歌えなかったことを、今でもとてもよく覚えている。
 このように、h先生の音楽の授業は、とても変わった授業だった。
 その授業は人によってはおもしろいと思うかもしれないが、今よりもさらに内気で、人前で歌うなんてもってのほかだった私には、その発声練習はものすごく苦痛だった。
 h先生の授業なんてもう2度と受けたくないと、授業が終わってから強く思った。
 それでもその時は臨時の授業だったので、h先生との授業はもうないだろうと思っていた。
 ところがどういうわけか、翌年から単一と重複のクラス分けが無くなり、音楽の授業も小学部の合同となり、h先生が担当することになったのだ。
 しかもそれは中学部3年まで続いた。
 相変わらず授業開始はh先生オリジナルのテーマソングから始まり、発声練習も『よさく』の他にも、アーク引っ越しセンターや、東海デジタルフォンのcmソング、さらには『おじゃる丸』のオープニングテーマなど、バリエーションが増えていった。
 授業本編では、とある曲を二つのグループに分かれてアレンジした物を発表し合ったり、一人づつが即興でワンフレーズ作った物を繋げて1曲を作るなど、それなりにおもしろいこともやってはいた。
 でも正直なところ私には、h先生の授業は合わなかった。
 いや、授業がというより、h先生が合わなかったのかもしれない。
 h先生は怒るととても怖い先生だった。
 小4の時の文化祭で、h先生脚本演出による世界旅行と環境問題をテーマにした演劇をやったことがあった。
 そこで私はほぼ主役とも言えるツアーガイドの役を与えられたのだが、台詞覚えの悪い私を、h先生は背中をバシバシ叩きながら大きな声で叱責してくるのだ。
 今だから言える話、このことがきっかけで、その後軽く不登校になりかけたほど、h先生は厳しい先生だった。
 そんな私にとっては苦手な存在だったh先生だが、私が小学部の高学年の時に、h先生が当時の卒業生に向けて書いた曲が、今でも母校の卒業式の式歌として歌われているという、すごい功績を残していたりもする。
 3年ぐらい前小耳にはさんだ話では、h先生は県内のどこかの特別支援学校の副校長をしているらしい。

 そんなh先生との様々な思い出が、天地真理の『虹を渡って』を聞くと、今でも鮮やかに蘇るのだった。

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