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どこにも無い

 先日同性していた、いや間借りしていた家に久しぶりに行ってきた。そこはお世話になっている出版社代表の事務所でもある。とあるプロジェクトに向けて急遽そこで打ち合わせをしようということになったのだ。
 事務所に向かう前に、そのプロジェクトのメンバーでもあり友人のTさんと、近くのドラックストアでロールケーキと紅茶を買って行った。このドラックストアに入ったのも久しぶりだった。家からも近いし安いので、食料品や生活用品を買いに行く時にはだいたいここに来ていた。店員さんも白杖を持った私にいつも親切に対応してくれた。聞く度に耳に残る軽やかなこの店のテーマソングがよけいに懐かしさを誘う。

 「洗濯物どかすからちょっと待っててー」
 出版社代表の自宅兼事務所に付くと彼は言った。まさに私が間借りしていた部屋は事務所の応接室でもあった。住んでいた頃事務所に来客が来ると、執筆中でも部屋を空け渡さなければならなかったのがいつもちょっぴり心苦しかった。
 玄関でまっていると、出版社代表が洗濯物がかかったハンガーをカラカラと運んでいくのが分かった。今では私が間借りしていた部屋が彼の居住スペースに、リビングと寝室は完全な事務所になっているようだった。住んでいた頃は私が洗濯物をリビングと寝室に干していた。間借りする代わりに毎月家に4万円入れることと、洗濯と洗い物は私がやるという条件を提示していたからだ。一人居なくなった今、洗濯物は一部屋でも充分干せるのだろう。
 もう私が住んでいた形跡は無いんだなあ。そう思うと何となく心がざわつくのを感じた。

 ドラックストアで買ってきたロールケーキと紅茶を飲みながら、打ち合わせは和やかに順調に進んだ。そんな中ふとトイレに行きたくなった。
「場所知ってるからだいじょうぶだよ」
 そう二人に言い残して、間借りしていた時よりも段ボールでさらに狭くなった応接室を出た。
 さきほど入ってきた玄関も、案外広い廊下も、入り口の段差のところにお風呂用の靴が転がったままになっているトイレも、当時はそこに私の歯ブラシが置いてあった洗面所も、あの頃とほとんど変わっていない様子だった。それでも…。
 私が居た形跡はもう無い。どこにも無いのだ。
 今更何を言う。書くことに専念したいという私のわがままで同性を解消してから約1年と10か月。向こうはどう思っているのかは分からないが、あの時思い切って同性を解消したからこそ、彼とは今もビジネスパートナーとしてとても良い関係が気づけているのだと思う。彼に対する未練は無いが、それでも罪悪感はまだ今でもある。詩人としても物書きとしても満足いくような結果や実績が残せずにいるからだ。まあ私の努力とがんばりが足りなさすぎるだけなのだが。
 あの時の私の決断は果たして正しかったのだろうか。後悔はしていないと言ったら嘘になる。だからこそ、自分が住んでいた形跡の欠片すら無くなってしまったこの家の空気感が、自分でも驚くほど切なく思うのかもしれない。

 その日の夜、生理前の不安症状のせいもあるのか、自室のベッドの上でなぜだか分からず一人泣いた。

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