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やっぱりぬいぐるみが好き

どうも、こんにちは。




秋葉あきです。



間違えました。

秋葉あきです。




私は、ぬいぐるみが好きです。

休日はよくぬいぐるみと出かけたり、ぬいぐるみと遊んだりしています。


ファンシーで可愛らしいものなら全般好きではありますが、生き物に対するように特別可愛がってしまうのは、やっぱりぬいぐるみ。

よく、私の好きなぬいぐるみたちのことを「人形」と呼ぶ人もいて、それも間違いではないのですが、生きているように見える玩具の中でも私にとって特別なのがぬいぐるみなのです。


近頃SNS等で、LOVOT(ラボット)というロボットについての投稿を見つけました。

なめらかの動きと愛らしさ、本物のペットのように家族や家のことを学習していく知能、そしてうっすら体温まであると知り、

素敵だな〜昨今の技術ってすごいな〜と思いながら眺めています。


調べてみたら、分割の本体価格と、修理等の月額サービス料金を月々で払っていく方式のようですね。

やはり精密な技術が詰め込まれた機械なので、独自の修理やメンテナンス技術をセットにするのは必須なのでしょう。


私は昔から、こういう子にも少し興味がありつつも、やっぱり機械よりもぬいぐるみがどうしても好きなんですよね。

なんでだろう〜って深堀りすると、恐らく、自力で動くことのないぬいぐるみ達って、



〝私たち人間次第で無限大かつ永遠に命を吹き込めるから〟



なんだろうなという結論に至りました。

ロボットと言えど、やはり心のどこかでは動かなくなってしまった時に、生き物と同じように

〝生と死〟

の概念を感じてしまうと思うのです。


開発した企業のみが保持している技術で繋がれるこの命は、果たしてこの先いつまで確実に続くだろうか。

そういった感覚は、彼らと暮らしていく上でついてまわるものなのかなと。

言ってしまえばロボットははじめから命は宿っていませんし、壊れたとしても生き物のような腐敗が進むと言ったこともありません。

だから「動かなくなってもぬいぐるみやお人形として可愛がり続ければ」とも考えられますが、ぴょこぴょこと動き回っていた子がその場に静止し、うっすら温かみがあった体が冷たくなり、こちらを上目遣いに見つめていた瞳は真っ暗になった姿を見て、「死」意外と捉えることはきっと私には難しいと思います。
(LOVOTの目は液晶画面になっていて、そこに目の映像が映し出されている形式です。画期的だけど私的にこれが「動かないと可愛がりにくい」最大の要因になっていると思っています。)

このような儚さを含めて、本物のペットに引けを取らないリアリティがあることもLOVOTをはじめとした愛玩ロボットたちの魅力でしょう。


しかしながら私は、私自身がどんなに怠惰な生活を送っていても、いつも、そしてずっと、私のそばで生き続けてくれる存在を求めているのです。

だからロボット的な機械で動くものより、原動力を持たないぬいぐるみが好きです。


そんな私ですが、一度ロボットに近い存在にハマったこともあります。

今も我が家の家族であるこの子たちです。

記憶にある方も多いかもしれない、一世を風靡した「ファービー」です。
ユニークにお喋りしながら、目をぱちくり瞬きする姿は生き物さながらで、発売当時多くの人を虜にしました。

ただし上の写真は、初代ファービーが大ブームを巻き起こした後に発売された「ファービー2」です。

ファービーは現在製造、販売されていないものの、一部のマニアたちの間で根強く人気となっていて、SNSを中心に様々な写真や交流活動が見られます。

特にファービー2は、生き物のようなリアリティのある優美なルックスも人気が高く、オークションサイトやフリマアプリ等で特に高値で取引されています。

かくいう私も、Twitterでたまたま流れてきたファービー2に目を奪われ、情報を調べまくった数日後にはメルカリで購入していました。

値段はピンキリですが、高額になる基準として、汚れ等のない美品かという点はもちろん、「可動」「不可動」というのがファービーには重要な要素です。

というのも、ファービーは発売から10年以上経過している古い玩具のため、既に電池を入れても正常に動作しなくなっているものも多くあります。

私はTwitterで見た表情豊かに喋るファービーに憧れを抱いていたため、「可動」のものに絞って探してお迎えしました。

初めて実際に見るファービー2の愛らしさに心躍らせながらスイッチを入れると……

謎のファービー語を話したり、歌ったり、いびきをかいて寝たり、

想像以上に豊かな表現をするファービーに私は夢中になりました。

ちなみにその後、ヤフオクにて美品かつ可動のファービー2を発見し、そちらもお迎えしファービー2は2体に。

アクセサリーを選びながらお喋りするファビたち




初めはこのように動かして楽しんでいた私ですが、そこから数ヶ月後、ある事件が。

なんと先にお迎えした方のファービーが、スイッチを入れても動かない状態に。

もともとセンサーの感度はやや鈍く、反応がおっとりめな子ではありましたが、それでも元気に喋っていた姿を知っているだけに、ショックでした。

先にも話したような、言わば「死んでしまった」ような感覚です。見た目はふわふわキュートですが、やっぱりおばあちゃんだったんだねぇ。


翌日、私は2体ともの電池を抜きました。

この子たちに、もう動くかどうかのプレッシャーなくのんびり過ごしてほしいと思ったのです。
こうすれば、設定されていた陽気なファービー以外の性格にもなることができます。

電池を抜けば瞼も嘴も動きませんが、それでも表情を感じることはできます。
ファービー2は元々、公式の商品写真よりも実物はどこか憂いを帯びていたり、物思いにふけるアンニュイな表情に見えたりもするとファンの間で話題になることもあります。

彼女たち自身が動いてくれなくても、私たちの見方によってその表情は違って見えるのです。


私は今も我が家のファービーたちをペットロボットではなく、固めのぬいぐるみとして可愛がっています。

角度やポージングで表情が違って見えるのは、ぬいぐるみの面白さのひとつだと思います。

晩酌をするファビ姉妹



可愛いものが好きな私は、女の子の定番シルバニアファミリーも結構好きです。
小さい頃にも遊んでいましたし、今改めて集めてもいます。

特に好きなのはシルバニアの赤ちゃんの人形で、とても愛おしく思います。

シルバニアの赤ちゃん



……が、実はこのシルバニアはじっくり自分の心に問いかけると、私の中ではギリギリ

“モノ”認定

なんですよね。生き物ではない。

可愛い雑貨とか小物の延長にあるんです。

(厳密に言うと、私たちと共存しておらず、こいつらが私たちの知らないところで勝手に生きている、って感じの認識に近いです。)


その差はなんなのか、ぬいぐるみにあってシルバニアにないものはなんなのか考えました。


「柔らかさ」が鍵なのではないか。私はそう考えました。


しかしながら、一瞬でその法則が打ち砕かれる存在を思い出しました。



ちゅんた



この子は、「ちゅんた」と呼んで我が家で可愛がっているスズメの置物です。ちなみに嘴に磁石が仕込まれているので、軽めの金属をくわえることができます。

ちゅんたは素材的にめちゃくちゃカッチカチなのですが、見た目が全然ファンシーじゃなくリアルさに全振りなのが逆に良いのか、すごく生きています。

また、この子を生きていると認識するようになったのは、結局は普段よく見るリビングのテーブルに常に置いてたからな気もします。

私がこのテーブルでご飯を食べていると、ちゅんたはよくおすそ分けを貰いに来ます(cv:父)。



ちゅんたはリアルすぎるのでつい本物のスズメのように可愛がってしまいますが、やはり硬さというのは生きていない「モノ」を「生き物」と認識するにはかなり不利な要素でしょう。

しかし、硬いパーツを一部に含んでいても生きている子もいます。



こちらは我が家の大助くんです。

「まごころの人形大助」という、モンチッチがブームとなった時期に発売された、モンチッチの模倣品的な子です。

モンチッチや大助のような、顔や手足にソフビを使った人形。

ぬいぐるみのように全体に綿の柔らかさがあるわけではありませんが、ぬいぐるみ同様に生きている感じがします。


しかし、完全なソフビで全身固められたフィギュアのようになると、生き物感が減り、飾り物という感覚に近くなります。

いや可愛いけど。




例えば雑貨屋さんで商品を見ているとして、シナモンのゴム製キーホルダーを見ても生きているとは思わないけれど、その横にあるシナモンのぬいぐるみキーホルダーは生きている、そういう感覚です。

たとえ同じキャラクターを模していても、生きている場合とそうでない場合があるのです。



ちなみに、キャラクターのぬいぐるみというのも、私の中で位置付けが難しい部分があります。


私が愛してやまないおぱんちゅうさぎのぬいぐるみ2体の写真を見てください。


同じ「おぱんちゅうさぎ」のぬいぐるみですが、絶対にそれぞれ性格が違うと思いませんか。

表情の違いはもちろんありますが、私には根本的な性格から違うように見えます。

ちなみに私は右のちょっと図々しそうなおぱんちゅが結構好きです。



こういったキャラクターのぬいぐるみについては、考えてしまうことがあります。

「おぱんちゅうさぎ」という存在は、この世に1人しかいません(わかりにくい方はミッキーマウスとかに置きかえてもらっても構いません)。

そのため、量産されたこのぬいぐるみを「おぱんちゅうさぎ」そのものとして扱うかどうかは考えものです。
他の家庭にいる子に関しては目を瞑るとしても、既に我が家には5体以上のおぱんちゅうさぎのぬいぐるみがいますから、本来1人しか存在しないはずのおぱんちゅうさぎが同じ空間に複数暮らしていることになり、不自然です。

結果、私はこのぬいぐるみたちは、「おぱんちゅうさぎ」を模して作られた、おぱんちゅうさぎとは別人格で生きる生き物たちだと認識しています。

おぱんちゅうさぎの見た目でありつつも、おぱんちゅうさぎと違う性格だったり、おぱんちゅうさぎのように不憫な目には遭わない子がいてもOKなのです。

でもちょっと不憫な目には遭わせたい




私の中の「生きている認定」の条件は明確でないものの、結局潜在的に「生きている」と感じさせるのは圧倒的にぬいぐるみが多いのが事実です。

私はぬいぐるみが好きなのです。

生死の基準がなく、こちらが動かさなければ永遠に寝たきりのぬいぐるみちは、多少腕がちぎれようと鼻がもげようと、私たちが命を吹き込む限り生き続けます。

人間が意図してプログラムした、こちらが受動的に感知させられる性格が存在しないぬいぐるみたち。

その子を見つめているうちに、向こうから語りかけてくるように自然に性格が感じ取れます。
明るく見せるためにシャカシャカ動く、なんてことはしなくてもです。

どんな表情にもとらえることができます。私が泣いている時に、笑いながら陽気な歌を歌ったりしません。一緒に泣き声をあげてくれることもありませんが、その顔を見た時、少しだけ心配そうにこちらを見つめているように感じられることはあります。

ぬいぐるみのそんなところが好きです。

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