【私は自分に自信が無い】ガリガリトンボを時間切れでひとガリだけしたら「ブス」と言われた話
私は自分に自信が無い。
このルーツはどこにあるのかと考えた時、おそらくは小学生〜中学生頃の経験なんだろうな、と思う。
小学校低学年の時、「むかしあそび」というカリキュラムがあった。
その名のとおり、昔から愛される「だるま落とし」「お手玉」といった懐かしおもちゃが廊下に並べられ、各自その時間は好きなもので遊ぶ、というものだった。
私は陰キャだったのでほぼ1人でむかしあそびに没頭していたが、
ただひとつ、遊びたいのに混み合っていてなかなか触れないおもちゃがあった。
「ガリガリトンボ」だ。
ガリガリトンボとは、割り箸や竹の棒に、プロペラ状の板を刺した、トンボのような形をしたおもちゃである。
その軸となる棒には、ギザギザと切込みが入っていて、ここを別の棒でガリガリと擦ることで生じる振動によって、先端のプロペラが回るというおもちゃなのだ。
私はこれがやりたくてたまらなかった。
ガリガリと擦る感触、それによってプロペラが回る感動を、この手で味わいたかったのである。
他のおもちゃで遊びつつ、その目は時折ガリガリトンボブースへ向ける。
ガリガリトンボはその他の極限まで原始的なおもちゃ達に比べて、緻密なテクノロジーを感じさせるからだろうか、意外にも人気を博していた。
陰キャなのでグイグイ他の子供をかき分けていくことなどできない私は、ひたすらガリガリトンボのブースが空く瞬間を待ち続けていた。
そしてようやく、ガリガリトンボの前から他の子供たちが散ったではないか……!
私は一目散にガリガリトンボへ駆け寄った。
そしてガリガリトンボへと手を伸ばしたその瞬間、
むかしあそび終了のチャイムが鳴った。
なんて切ないことだろう。
この数十分間、ずっとガリガリトンボのことを頭の片隅で想いつつ、他のおもちゃで暇を潰してきたというのに。
私はそれでも、ガリガリトンボを擦るその感触を、一瞬だけで良いから味わいたいと思い、
ようやく掴んだガリガリトンボをほんの、ほんのひとガリだけしようと棒を軸の溝へかけて前へ押し出した時だった。
「もう終わりって言ってただろ!ブス!!!!」
「ブス!!!!!!」
同級生の男子2人の声だった。
待ち望んでようやく手に取ったガリガリトンボをひとガリした私に、
男子2人の「ブス!」という罵声が浴びせられた。
元々大人しく、他の子供と喧嘩するようなこともほとんどなかった私は、
聞き慣れない大きな声と暴言に、体が硬直するような衝撃を受けてしまった。
その後は給食の時間だった。
給食当番以外の子供たちは、各自自分の座席に座り、給食が配られるのを待つ。
私は自分の席で給食をじっと待っていたのだが、
先程のショックがじわじわと込み上げてきていた。
時間が過ぎてから何分も遊んだわけじゃない。
ほんの1〜2秒、1回だけガリガリ、いやガリしただけだ。
それだけの罪で、「ブス!」と全然関係ない容姿を貶されなければならないのか。
幼い私の目から、ポロリと涙が零れた。
「泣いていることがバレて騒ぎになるのはいけない」という意識が強かった私は、
溢れる涙がバレないよう、俯きながら座っている自分の太ももへ涙を落とした。
さすがに、これだけ泣いていたら誰かしらが発見してしまうだろう……。
問いただされたらどうしよう。私がむかしあそびの時間外にガリったのがいけない。
暴言を吐いた男の子たちを責めるようなことも出来ない……。
そんな思考を巡らせているうちに、
どうやら全生徒へ給食が配り終わっていた。
いつもと何も変わることなく、「いただきます」の挨拶がかわされ、
皆給食を食べ始めた。
私の涙には先生も、生徒も、誰1人気づくことなく給食の時間が終わった。
あぁ私は、こんなにも影が薄いのか。
涙をボロボロ流しても誰にも気づかれないのに、
ガリガリトンボをひとガリだけした瞬間は見つかってしまう。
私の苦しみは気づかれることがないのに、
私の悪い行いは僅かでも簡単に見つかり、暴言へと繋がってしまう。
幼いながらに自分の人生の本質を見たような気がして、私はもうガリガリトンボに触れなくなった。
世の中のみんなへ。
軽い気持ちで人に「ブス」というのはやめよう。
小学生の子供たちへ。
むかしあそびの時間を過ぎてもガリガリトンボをガリってしまう同級生には、
「ブス!」ではなく「もう終わりだよ!給食にしよう!」と優しく伝えてあげてね。
過去の私より。
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