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どこかのライフを見に行くよ

呼吸をすれば、その度に身体の中を酸素がめぐって、ちょっと前までの自分が少し崩れて、新しい自分がよいしょっと現れる気がしない?

不思議だなって思うのは、浅いのもあるし、深い呼吸もあるよね。
忙しいと浅くなってしまって、身体が重くなって気持ちも同様で誰かを傷つけてしまう気がする。ヨガとか瞑想とか、深く呼吸する人はふにゃ〜としてて優しい心地なんじゃないかな。

誰かと出会うじゃない。
出会いの時に第一印象が大事って言うけど、出会い、その瞬間の情報量を正確に捉えることって難しい。気づいたら通り過ぎてしまって触れ得ないところに行ってしまってさ。そのことに気づいて帰り道は一人雨みたいな。

目と目が合って、挨拶をして、その時に頭だけじゃなく細胞の全てでエネルギーを交換してるんだろ。球技の中でのパスワークみたいなもので、交換がうまくいくこともあるし、そんなにうまくいかないこともあるよね。技量?とかタイミングとかでうまく合わないことなんて、ザラなんだ。

関係ないけどさ、資本主義における価値交換が最近うまく行ってない気がするんだよ。どんどん小さな物語と言葉に終始している気がするんだ。

そこまで、気にしなくていいなって思うのは、もしもう一度チャンスがあって、どこかで会えたらきちんと確認するといい。(もちろん、もう一度チャンスがやってきて欲しいと願うことは大事だよ)
前の時の記憶の中でのその人がそのままなのかなって。

変わってたとしても、そのままだったとしても、その人から変わらない自分の本質みたいなものが見える気がするのね。
考えてきた時間とそのリフレクション。
跳ね返ったエネルギーの照射の中にその時の自分が見える、みたいな。
そうゆう自分らしさを見つけられるような時って大切だなと思うし、それをくれた人のことをありがとうって思う。

人だけじゃないんだろうね。
時代を幾つも重ねた戯曲だったり、両親の世代に流行ったポップソングだったり。はたまた、山で見つけた少し個性的な石とか。
大切なものは時間を超えて訪ねてくることもあると思うんだよ。
きっと、その時そのタイミングで強い発光をしたエネルギーは様々な経路や媒体を通過して、誰かが手に取るその時を待っているんじゃないかな。

その時にその作者はもういなかったとするでしょう、少し寂しい気にもなるんだけど、その分焦らずに幾らでも味わったり、愛すことができるんだなって思うと、安心できたりするものなんだよ。

誰とか、あれとか、これとか、色々あるんだけど、本当は自分を探すために必要なものをその中から見つけようとしている。
そのことに気づいたら、また世の中との新しい会話が始まる。始まる気がする。
今はそう思うのね。でも、同時にこれまでもずっとそうで、そのことを忘れて、また思い出してを繰り返しているところなんじゃないかな。

どう思うって自分に聞いて見るんだけど、はっきりとは言ってくれないから、今日も手がかりを探しにいろいろ足を運んで、見に行くのよ。

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