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感情は守っていい

自分は喜怒哀楽がはっきりあるタイプだと思う。感情的だともいう。
嬉しいときは嬉しい、幸せだと口に出して伝えるようにしている。
嫌なことがあるとむすっとしてしまう。これは直したい。


そんな私だが、結婚して1年たったくらいの頃から、夫に対して感情表現ができなくなっていた。
その頃は、初めての出産育児で産後鬱に片足をつっこみつつ、授乳で1ヵ月1キロペースで体重が落ちつつ、第二子妊娠中でつわりに苦しみつつ、卒論を書いて卒業を目指していた時期だった。

心身ともにはちゃめちゃな状態に、毎日のように繰り返される夫との諍いで、私は感情を失っていた。

無事に大学を卒業して働き始めたあたりから心身の状態はかなり良くなったのだが、夫に対する感情表現だけは、最後まで取り戻せなかったのだ。


諍いを避けるため、私から多くは話さなくなった。
伝えたい気持ちや考えは飲み込んだ。
夫が同じ空間にいると、表情筋が死んだように動かなくなった。

彼は私の考え方を好まなかった。
痛みや悲しみに向き合おうとする気持ちとか、行き着く場所がわからない不安とか、故郷に帰りたいと思う願いとか、文章を書くこととか。
私が大切にしたい私の気持ちや考えを、彼は理解しようとせず、鼻で笑っていた。

noteを始めた初期のころ、実は今残っているものよりも多くの投稿をしていたのだけど、夫の批判を受けてだいぶ削除した。
今残っている当時の記事も、彼の逆鱗に触れないように、慎重に慎重に書いたもの。
せめてもの抵抗で、行間や言葉の使い方に、かろうじての私の想いを含ませた。


楽しいこともあったと思う。
嬉しいことを言ってくれることもあった。
だけど私は彼の前で自然に笑うことができなくて、硬い表情筋を無理やり動かし口角を上げていた。

諍いがあると私は泣いた。
本当は泣きたくなんかなかった。涙を見せるのは悔しかった。
だけどどうしてもこみ上げるそれは止まらなくて。
その涙だけが、私が夫に唯一見せる感情だったと思う。

口をぎゅっと結び、泣かないように部屋の隅をにらみながら、それでも大粒の涙が溢れる私をみて、夫は時に眉間にしわを寄せてため息をつき、時に怒声をあびかけた。
泣くという行為は、彼が最も嫌うものだ。

「前はもっと違かったじゃん。もっと笑ってたじゃん」夫は言った。
「結婚詐欺だよ」と。

どうして笑えなくなってしまったのか、どうして涙が止まらないのか、そんなの私が一番知りたかった。

可愛げのない、自分。もっと可愛げのある女だったら愛してもらえたのだろうか。


当時の自宅での私の様子を、あとから母は「能面のような顔だった」と言った。
まさにその通りだったと思う。


夫のもとを離れてもうすぐ4か月になる。
優しい人たちに囲まれ、家でも外でも、よく笑えている。何なら一人でも笑える。車のラジオを聞きながら声を上げて笑っている。

たまに一人で泣くこともある。
だけどそれは、前みたいな苦しい涙じゃなくて、自分の心を整理するための、自分のための涙。


夫のことを考えると、今でも表情筋や体中の筋肉が固まると感じることもある。
夫の発する言葉に触れると、例えそれが人づてや画面の中の文章だったとしても、動悸がし、不安になる。

だけど、そんなときは思い出す。
自分が今、好きな人に囲まれ、好きな場所にいることを。
毎日文章を書き、それを受け取ってくれる人がいるということを。
私は私の感情や思考を、守れているということを。

そうすると、180キロ離れた場所で私を憎んでいる彼のことなんて、取るに足らないものだと思えるのだ。

きっとこういうところが、可愛げがないんだろうな。


こういうことを書いて、別に可哀そうと思ってもらいたいわけでも、夫を批判したいわけでもない。
だけど、人と人の関わりのなかで、どうしても一緒にいてはいけない人っていると思う。

一緒にいる誰かとの関係性によって、人ひとりの感情や思考が失われることは、この世界にとっての不利益だ。
ちょっとスケールがでかすぎる気もするけど、私が言わんとしていることは伝わるだろうか。

「世界は思考でできている」
大事な友人の作った曲の歌詞。
まさにそう。たくさんの人の思考や感情が充満しているからこそ、この世界は尊い。
(ただし、他者の生命の存続などに関わる危険な思考は別である。人は生きている。)

だから、自分の感情や思考は守られるべきだし、それを守るためには一緒にいるべきではない人とは距離をおいていい。
それは自分のためでもあるし、この世界のためでもある。


あの頃の私のように、他者との関わりのなかで心を殺している誰かにこの文章が届けばいいなと願う。


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