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ころちゃー丼がなくなった

今日はあたたかい。洗濯物を干しながら思わず空をみあげてしまう。

冬の突き刺すようなするどい寒さが好きだ。
が、それは概念としての話であって身体は決して好いてはいない。あたたかいほうがいいに決まっている。

ひとりで洗濯物を干しているのが至極久しぶりなように思う。たいてい誰かとぽつぽつ話しながら干す洗濯は一瞬で、寒くても部屋着のままで耐えられるくらいの滞在時間で済む。ひとりでゆっくり洗濯物を干すのがひそかに好きな私は、その歓びに浸っている。

鳥の声、木が揺れないほどの僅かな風の音、洗濯物をぱんぱんとする音。洗濯ばさみがかちっと挟む音。誰かと話しながら干していると聴こえない音が私を癒し、満たす。一体普段は皆と何を話しながら干しているのだろうか。無言なことはないのにたいそう面白い記憶もない。昨日のことも一昨日のことも思い出せない。夕飯だって日記をサボって三日も経てば忘れてしまう。

近くにある大好きなラーメン屋さんからコロコロチャーシュー丼がなくなったらしい―というのは彼情報で私はなくなってからまだ店には行っていない―。コロコロチャーハン丼とは、ラーメンにプラス350円はらうとつけられる三種のミニ丼セットのうちのひとつで、ご飯の上にチャーシューとネギと海苔とマヨネーズの乗ったシンプルな丼だ。ころちゃー丼と勝手に略し、私が頼むと店長に覚えられるほど私のお気に入りであった。頼まなかった日はほとんどない、と思う。どれだけおなかがすいていなくてもラーメンを誰かに託してころちゃー丼だけは自分で食べた。炙られた香ばしいチャーシューの上に思い切りのいいマヨネーズ。その上にラーメンにつけた味玉を半分取り出して乗せ、丼丸ごと浸るくらいにラーメンの汁をかける。わたしの誇らしいほどに美味しい流儀だった。そんなころちゃー丼が、メニューから消えたらしい。彼の愛した半チャーハンセットも一緒に。

赤字だろうか。大きくしすぎたのではないだろうか(店長のつくるころちゃー丼のサイズは気まぐれで、「ミニ丼」の名にふさわしい日もあれば丼がメインではと疑うほど大きい日もある)。何はともあれなくす必要はなかったのではないか。ただの一客として何も言う権利はないだろうに勝手にとても悲しくなった。それと同時にほらね、と安堵している。やっぱり、身近で当たり前に思っているほどいきなり、なくなってしまう。いつかなくなる可能性、もう会えなくなる可能性、そんなものを考えたことさえないものから順に手元から離れていく。特別なことではなく自然に起こり続けているのに私たちは何度も何度も忘れてしまうんだ。そしてそれは、やっぱりとても寂しい。

何度も何度も通っているラーメン屋だが、ふと半チャーハンところちゃー丼の控えのチケットを、スマホに挟んで持ち帰ったことがあった。なくなるかもしれないからではない、なんとなく、大好きだからもっておこうと。写真に限らず、私はちいさな思い出になるものを収集する癖があるスーパーのレシートとか、切符とか。そのチケットも、いつもは捨ててしまう券売機の薄いインクで印刷されたものだった。

なくなったと聞いた日、大事に持っていたチケットをコルクボードにひっそり貼ったことを思い出した。そしてよかったと思った。もう二度と現れないかもしれないその紙切れを、私は残していた。これで私が大好きだったことも、何度も食べたその味も、「三種のミニ丼セット」の字体も、忘れずにいられる気がしたのだ。もちろん写真もある。私にとってはそのためのカメラだ。

こういうことの繰り返しなのだと思う。次の日にはすぐに忘れてしまうようなこと、大きな出来事だと思っていたのに数年たてば思い出せないこと。その中で生きている、それが大半の時間の中で。

だからそこに目を向けていた過去を確かめられて少し、嬉しい。この気の張り方を忘れずにいるために、私はもう一度、写真生活家になろうと思う。


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