聖母マリア −ショートショート−
40代に突入した途端に、友人と集まると、話す内容が変わってきた。
以前は恋話に花を咲かせた事もあったのだが、今は自分達の身体の変調や、家族の話しをする事が多くなった。
その日は、乳がんの話しになり、自分でもできるからと触診の仕方を教えてもらった。
家に帰ってお風呂上がりにビールを飲みながら、何気に胸を触ってみた。
左胸に小豆大の硬いものがあった。
慌てて友達に電話をすると、取り敢えず病院に行ったほうがいいと、彼女が行ってる乳腺外科を紹介してもらった。
ビールを飲んでも落ち着かない。
何だか悪いことばかり考えてしまった。
⌘⌘⌘
初めての乳腺外科。
空いてる椅子を探すのが大変なくらい混み合っている。
マンモグラフィーなど、一通り検査を終えた医者の口からは、「直ぐにMRIを撮りましょう」と陽性の疑いをほのめかす言葉がでた。
MRIの結果を待っている間、改めて院内を見回すと、3枚の絵が目に入ってきた。
その中の一枚は、背景が青のバレエリーナ。大きさは畳1畳分あるだろうか。
その憂いのある瞳。何を想い誰のために踊っているのか。そんな事を考えていた。
MRIの結果がでたと看護師に言われ診察室に呼ばれた。
「私の経験からすると、これは99.9%陽性です。しかし、検体検査をしてみない事には分かりません。稀に陰性だったという事がありますから。」
名医と言われてる医師の口からそんな言葉がでたら、覚悟するしかなかった。
自分の体にメスが入るのは、これが最後であって欲しいと願った。
⌘⌘⌘
検体検査の結果を聞く日。
どんな結果であれ、現実を受け入れる。それが私の人生。そう思って医師の前に座った。
「陰性でした。本当によかったです。でも、このしこりの形は、陽性に多くてね。悪性になるかもしれないので、定期的に検査をしましょう。」ということだった。
それから3ヶ月毎、半年毎、今は1年に一度の定期検診をしている。
行くたびに絵を見ては、この絵はたくさんの患者さんを見てきて、そして多くの患者さんがこの絵を見ているんだなと思った。
⌘⌘⌘
定期検診の日、一人の60代くらいの女性が娘さんと思われる人に付き添われて待合室にいた。
会話は少なかったが、女性の表情からは不安を感じとることができた。
診察に呼ばれ、その後戻ってきた時に、女性の目が涙で潤んでいた。
何気にあの絵に目をやると、頬に涙の跡が…思わず絵の前まで歩み寄りジーッと見つめていたら、看護師が「どうしましたか?」と声をかけてきたので、正直に絵が泣いていると伝えた。
看護師はバレエリーナを見て、「確かに、そうかもしれませんね」と言って去ってしまった。共感してくれたのだろうか?
会計を待っている間も先程の絵が気になっていた。
時にはポーズが変わっていたり、少し微笑んでいるようにも見えたりする。
絵が表情を変えるなんてそんな話しは聞いたこともないけれど。
名前を呼ばれて会計を済ませた。
最後にもう一度あの絵を見たら、赤い涙が流れているように見えて「あっ」と小さく声を出してしまった。
慌てて周囲を見たけれど気付く人はいなかったが、一人だけ絵の近くで泣いている女性がいた。
もしかするとその人の突然の悲しみを、絵が受け止めたのではないだろうか?
この絵は病院の聖母マリアに違いない。
そう思いながら一年後また会いましょうと心の中で呟いた。
《おしまい》
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