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日々を綴る、人生の風向きはまだ読めない

5/15 mon

随分間があいてしまった。やめていなければ続いているの信条のもと地道に再開していきたい。4月はわけのわからないうちに去った。2フロアしかない会社の中を行き来して1日に4万歩を歩く生活、多忙に多忙を重ねて、気づけばゴールデンウイークに突入し、それさえも気がつけば1週間前の話だ。

6月半ばで現職が1年になる。今までの中で一番あっという間に過ぎた。歳のせいかもしれないし、4月はたまたますごく忙しかったけれど基本的にはすごく仕事が暇なせいかもしれない、とにかくあっという間に過ぎた。5月の頭に面談があって、早ければ1年で正社員になれるという入社時の説明とは裏腹に、今日私の手許に届いた更新契約書は契約社員のままだったので、憑き物が落ちたようにすんなり「辞めよう」と思えた。「1年で正社員になれなかったら辞めよう」と入社したときに決めていたので、半年の更新契約にサインはしたけれど、あぁ私はこの、やさしくてぬるくて退屈で社会人レベルが低くてなんのスキルアップもいらない漫然と庶務だけをこなしていればいいだけの仕事を辞めていいんだな、と理解したらとてもスッキリしたので、デスクの中に散らかしていた書類を勢いよくシュレッダーに掛けた。入社日もなにも合っていない、新卒が入社したときについでに巻き込まれた、入社から9ヵ月経過したあとに渡された入社式辞令書も一緒に捨てた。日付が合ってないから何の証拠にも使えやしないので。

これから何をしよう。ここにかつての悲壮感はない。あの日と同じく私の手にはたいしたものがあるわけではないけれど、どうなりたいか訊かれたら早く死にたい以外の願望があるわけでもないけれど、虚しくはないし苦しくもない。自由があるのだと思う。私の手には自由がある。私が私の人生を選択していい、私の自由が確かにあって、それだけは信じられるようになった。だから悲しくはない。私は私で、私のまま、きっとどこへだって行ける。

これから先のもっと先を描いた地図はないんだろうか?
迷いはしないだろうか
それでいいから そのままでいいから
本当はいらなかったものもソファも本も捨てよう
町へ出よう

ヨルシカ/チノカテ


5/16 tue

夢に弥彦神社が出てきた。それも2回も。呼ばれている感じがする。


5/17 wed

今日から1年間、牡牛座は幸運期。とありとあらゆる星占いで言っているので幸運期だと信じて生きることにする。一方で陰陽道では八方塞だったりするわけだが、自分に都合のいい運勢を選んでいいと思っているので、いまは星占いの下にいることを私は選ぶ。

ここ最近、私の中にずっとある死への欲求と、例えば明日家族が死んだらどうしようという死への恐怖がずっと相克していて、段々と気が狂うとはこういうことかもしれないと考えている。おおよそ平均的に幸せな生活を送っている、いま私の目に映る多く人間は普通こんなことは考えないのだろう。けれども「死とは何か、魂とは何かと考えているうちに研究者になりましたね」と語ったドイツ文学の先生のことを思い出し、他にも同じようなことを胸に抱きながら生きてきた人々は確かにいて、折に触れて彼らは私を慰めてくれる。重いカーテンの隙間からほんの一瞬だけ光る、小さな星のようだ。

イマココからの究極の自由はやはり死ぬことで、私の真実的な願望は死の中にこそあって、現世の中でやりたいことやなりたいものを求めたところでそれはひとときの仮初なのではないかと思う。ゆえにいつまでも満たされない。満たされないなりに生きるしかないので、死を考えるのではなく、それでもどうにかして生きていく人間のことを考える。それが結晶化すると私の小説になる。ヨルシカを想う、n-bunaの書いている詞は繰り返される生き死にのそれで、だから私はあまり、n-bunaの書く世界を解釈したいと感じないのかもしれない。彼の語るとおり、たぶんそこには意味がないから。あぁ結局、前世ライブの感想を書いていないな。ノートにメモは残っているのだけれど。

誰にも私の孤独は理解できない。私にもあなたの孤独は理解できない。


5/18 thu

米津のLADYが好きだ、ということは前にも日記に書いたか。書いたな。4月半ばくらいから仕事帰りはずっとヨルシカのプレイリストだったのだけど、気分が変わったので以前に勢いで作った米津のプレイリストに切り替えたらやっぱりNighthawksが好きで、Nighthawksという曲はどうしてこう、イイ、んだろうなと思った。私も夜に住みたい。ずっと夕暮れから真夜中だけを暮らしたい。朝が嫌いなわけではないけれど。反抗期の私、思春期の私、大学生の私、朝が嫌いだったあのころの私を、これからの私はずっと可哀想に、ずっと愛おしく、ずっと尊いものとして扱うだろう。少しさみしいね。あのころに帰れないことは、あのころの必死さは本当につらくて苦しくて嫌だったはずなのに、それでもあのころに帰れないことは私をさみしくさせる。

昼休みにちまちまと金原ひとみ『デクリネゾン』を読んでいる。帰宅してから読もうと思っても疲労で全然頭に入らないので、昼休みの20分くらいを使って読み進めてやっと半分。私は、正直に書いてしまえば、何をしていても、たとえば一緒にご飯を食べたりどこかへ遊びに行ったりしても何もかもを全て小説へ帰着させてしまう人種が嫌いで、口を開けば二言目には小説のネタになりますねみたいな扱いをする人種を鬱陶しく思っていて、だってさあ、嫌じゃん、いまここで私とあなたは時間を共に過ごしているのに本当は全然私になんて向き合ってなくてその頭の中には小説しかなくて時間も空間も真実共有できていない苦しさとかさみしさとかがあって、もっと端的にいうならすげえつまんねえなって思ってて、嫌いだったんだけど、でもその小説脳をたぶん人は才能と呼び、作家とはそういう生き物なのだと、デクリネゾンを読みながら悲しくなっている。それなら私はやっぱり作家になんてなれねえんだろうなっていう。私の脳から心からその他五臓六腑と四肢全部を小説に捧げられるわけねえじゃん。私の指先に神様なんていない。

どうしていつもこんなに引け目に襲われるのだろう。こわいな。早く死んでしまえばいいのにな。私は私を救済するために文章を綴りだしたのだから、心もからだも死んでしまえばそれで済む話だろうにな。


5/19 fri

やることはあるのにやる気がしない。PMDDかもしれない。現職に就いたあたりから生理不順がひどく、今回も2か月遅れで来たので、身体が倦怠感に堪えられていない気がする。婦人科に行くべきとわかってはいるものの、先天性欠如歯の関係で半年に一度は見せに来いと言われた歯医者さえもコロナ禍に託けて2年は行っていないので婦人科なんてさらにハードルが高くて放置している。生理不順はたぶんすごく太ったせいだと言い訳をしながら。

ここから1年間は美容とダイエットに日々を費やしていこうと謎の決意をしていて、4月から5月頭にかけて撮影した写真映りのひどさを教訓に、まずは肩と背中瘦せ!と思って始めたトレーニング。朝晩30回ずつしかやっていないけれどもともと運動不足だから1週間ちょっとで少し薄くなった、と思う、思いたい。鎖骨から肩にかけての骨感が出てきていい感じ。首から肩にかけてのもりっとしている部分が特にすごく嫌なんだけど、ストレートネックだけは自力ではどうしようもないので整体通いするしかないんだろうな。骨盤の歪みを直さないことには脚も痩せそうにない。あぁ顔の輪郭は歯医者……歯医者嫌だな……絶対怒られるからほんとうに……

明日はコナンを見に行こうと思っていたけれどちょうどいい時間帯がなくて完全に観るタイミングを見失ったっぽい。そして眼鏡が壊れた。最悪だ。


5/20 sat

眼鏡が壊れた(ねじが外れて片側のテンプルが取れた)ので一日寝ていた。わざわざコンタクトレンズをつけてまでやりたいことがなかった。たぶん正味2時間くらいしか起きていない。でも敷布団とシーツは干した。褒める。


5/21 sun

夢に2回も弥彦神社が出てきたので行かなければなあ、と思いのろのろと起きた。本当は7時くらいにスタバへ行って1時間読書をし9時には神社着、みたいなスケジュールが理想だったのだけれどなんだかもう怠くて怠くて人間ではいられないのだった。死にたいなあ、死にたい、軽率にそればかりを考えてスタバのドライブスルーでアイスのホワイトモカとBLTサンドを購入してひとりドライブ。運転は好きじゃないけれどひとりで遠出するのは好きだなあ、そういえば去年の7月からこちら、何をするにも誰かと一緒でひとりだったことがなかった。これはとても幸せなことでどれも楽しかったけれど同時にやはり私には窮屈さや息苦しさがあったのかもしれない。

さわさわと新緑が揺れる。お宮参りの人々が目につく。中国語や英語が飛び交っている。最近は映えを意識したスポットがかなり増えたので桜が咲いているわけでもないけれど若い子たちもそれなりにいる。でも不思議なことに弥彦の木立はいつも静かで、そういえばお正月にお参りにきたときも「こんなに人がいるのに随分静かだなあ」と思ったのだった。京都の安井神社と下賀茂神社もわりといつもこんな感じだよななんて思い返す。弥彦は木々の匂いが立ち込めている一方、安井神社も下賀茂神社も水の匂いがすごい。まあ京都に行くと大体雨に降られるせいかもしれない。どこへいってもほぼほぼ晴れ女の私が唯一雨に降られる場所、それが京都。

呼ばれてきたのでおみくじを引いたら大吉だった。この神社大吉存在したんだななんて思う。参拝の仕方間違えたんだけれど。四礼二拍手一礼してしまった。

本殿を出たらロープウェイ乗り場までの無料シャトルバスがちょうどやってきてこれはどう考えても弥彦の頂上にある御神廟まで呼ばれている、と思ってとりあえず弥彦公園まであちこちうろうろしてかわいいロゴのレモンスカッシュを片手に再びシャトルバス乗り場まで戻ってロープウェイで山を登ったものの、御神廟へ行く道なりで具合が悪くなって引き返すことになった。あと少しだったんだけれど。暑さに慣れていない状態で汗をかいているのと頂上での気圧の変化で強いめまいが襲ってきて、ぼんやりと、ここから滑落したら死ぬな、と思った。もしかしたら神様はそういうことを私に考えさせたくて呼んだのかもしれない、まさか殺してやろうと慈悲を下さったわけでもあるまいし。とか考えながら来た道を戻る。米津玄師の馬と鹿が流れている。道行くガチの登山客たちと挨拶を交わしながら下った。

申し訳なかったのでもう一度本殿にお参りしてから帰った。今度はきちんと二礼四拍手一礼。御神廟には行けなかったけれど空気が気持ちよくていい時間でした。呼ばれたら来るもんだなあとしみじみ。

ロゴがめちゃくちゃハニレモすぎて好き。くそかわいい。指が邪魔すぎて下手くそ!て内心で罵倒した。

帰りにJINSへ寄って無料でねじを止めてもらい、JINS神……!と思った。次に買うときもJINSにします。鬼滅見ながら部屋を掃除してスッキリ。そんな日曜日。

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