浜崎あゆみと私の孤独


「あゆが好きだ」と公言することは、「私は孤独だ」と告白することによく似ていて、私は、親しい友人にもほとんど話したことがない。


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2020年7月1日に放送された日本テレビ「今夜くらべてみました」で、社会学者の古市憲寿氏が「浜崎あゆみ」について熱弁しているのを見た。あゆが孤独に築き上げた一時代、その真っ只中で、彼女の音楽に救われて生きていた少女の一人だった私にとっては、氏の解釈には共感しかなかった。

「ayuの曲って、すごく暗くて孤独で、それがやっぱり、当時ウケたなっていうふうに思うんですよね。ファンも当時、多分寂しくて聴いたんだろうなっていう人が多い気がしてて」
「軽快で明るい歌とかラブソングとか、いろいろあるはずなのに、居場所がなかったってことを歌ってて、これがすごい当時印象的だったんですよね」


あゆのことで、誰かに共感する日が来るとは思わなかった。私はほとんど、あゆを、かつての浜崎あゆみの音楽を、自分の孤独と同一視している。だから長く好きだという話をしなかったし、気の置けない友人たちの誰ひとりですら、私がいっとうあゆの音楽を聴いて生活していたことなど、いまでも知らないはずだった。


私があゆと出会ったのは、中学生のときだったと思う。当時から、宇多田ヒカルと同じくらい、いや、もしかしたらもっと強烈な何かによって、私は「浜崎あゆみの音楽が好きである」ということを、誰かと共有しようとあまり考えなかった。あゆの音楽を、詞(ことば)を、誰かと共有することは、私の孤独を告白することに似ていて、それはつまり、渇きに近い心の虚(うろ)を、どうにも他人に覗かれるような、カッと頬が熱くなるような、羞恥が込み上げたせいだった。

知られたくない。

あゆ以外の誰とも、私のさみしさをわかり合いたくなかった。



「ヒッキーの歌から私が感じるものが、私の「宇多田ヒカル」の全てでいい」と言い、宇多田ヒカルの特集もインタビューもろくに読まず、聞かず、彼女の音楽だけを目の前に置いているのとは異なって、あゆの歌を聴くときは、いつも、浜崎あゆみ自身のことを考えた。

カリスマで、大衆的で、時代の誰よりも眩く輝いている人なのに。

あゆは、孤独だった「私」を見つけてくれた。

世界で、あゆと私だけが、たったふたりだけでわかりあえる感情があって、だからいつも、独りでいるときは、浜崎あゆみという人のことを想った。


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今くらを見たあとで、ものすごく久しぶりにあゆの音楽に触れた。幼いころの私の胸を突き刺した激しさは感じなくても、やっぱり自然と泣いてしまって、自分がどれだけあゆの音楽に慰撫されてきたのかを考えた。

あとどの位の勇気が持てたら私は
大事なものだけを
胸を張って大事と言えるだろう


彼女の楽曲で一番好きなものは「No way to say」だけど、たぶん、一番聴いたものは、古市氏も言及した「A Song for XX」である。

いつも強い子だねって言われ続けてた
泣かないで偉いねって褒められたりしていたよ
そんな風に周りが言えば言う程に
笑うことさえ苦痛になってた

派手なメイクに、強気なファッション。「自分のしたいようにする」スタイルを全面に押し出して、周囲を睥睨するように歌う。時代の象徴としてカリスマになっていけばいくほど、一方で、あゆは、孤独と焦燥感に駆り立てられているようだった。誰ともわかり合えないさみしさが、詞に滲んで、響いて、罅いて、テレビでは時々、こぼすように笑った。長い睫毛で大きな瞳を隠して、口許だけで笑っていた。


あゆを聴いていたころの私は、学校でいじめに遭っていて、友人とも先生ともまともな関係を構築できていなかった。家に帰れば帰ったで、仕事に追われてろくに家のことを見ていない母親に素行を怒られ、単身赴任から週末に帰宅する父親に話も聞かずに怒鳴られる、亀裂ばかりが深くなった。心を通わせる言葉が、なかった。毎日。咽喉からどんどん声が出なくなっていた。

だから、部屋に閉じ籠もってあゆを聴いた。あゆを聴くときはいつも悲しかったし、いつもさみしかった。あゆを聴いている真夜中は、永遠に感じるほど孤独が深く、長くて、あゆを聴きながら玻璃を射す朝日を見ると、その瞬間こそが世界の終わりのような気がした。

それでも、今日も、生きてくんだって、思った。


君がいたから どんな時も笑ってたよ
君がいたから どんな時も笑ってたよ
泣いていたよ 生きていたよ
君がいなきゃ何もなかった

必死に、生きることを足掻くみたいに、いつしかデビュー時の美しい高音さえも潰しながら、いくら咽喉を嗄らそうともやめず、浜崎あゆみはいつもどこかで歌っていた。家の中で、学校の放送で、街中の有線放送で。

絶え間なくシングルをリリースし、ソロアーティストとして売上枚数の記録を更新しつづけ、あらゆる賞レースを総なめにし尽くしてなお、あゆは立ち止まったら居場所を失い、死んでしまうかのように歌い続けていた。煌びやかな世界で、スポットライトのド真ん中で、強く美しく、ときに少し好戦的に、ときにひどく傷つきやすく、そして何より孤高に、自分の詞を歌っていた。


僕達は幸せになるため
この旅路を行くんだ
誰も皆癒えぬ傷を連れた
旅人なんだろう
ほら笑顔がとても似合う

歌番組で、ついに声が出なくなったときのあゆのことは忘れられない。そのときに歌っていたのが「Voyage」だった。美しいドレス姿で、だけどボロボロになりながら「幸せになるためこの旅路を行くんだ」と、悲鳴のように彼女はさけんだ。あれは叫びだった。


痛々しかった。悲愴でもあった。それでもあゆは、同情を撥ねつけ、嘲笑を睨めつけて、栄光に翳りが差し始めてからも、「浜崎あゆみ」を生きようとしていた。少なくとも、私にはそんなふうに見えていた。

鬱くしく、美しかった。


そうだ、だから、たぶん、あのときにはすでに、あゆの音楽をあまりにも重く愛しすぎていたあの歳のころにはとうに、明るいことだけが人を抱きしめるわけじゃないのだと、私は知っていたんだと思う。

あゆは、私の孤独で、私の弱さで、慰めで、

生きることを投げそうになるそのたびに、私を奮い立たせた勇気だったのだ。


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2010年に発売されたアルバム「Rock'n'Roll Circus」を最後に、私はあゆを聴かなくなった。この記事を書くにあたって、アルバムを引っ張り出し、驚いた。あゆを聴かなくなってから、10年も経っている。

ただ、「Rock'n'Roll Circus」を聴いたときのことは覚えている。「この人は寄る辺のない孤独と、決別したんだ」――おのれを取り巻く清濁を、全て飲み込むようだった。ずっとかすかに見え隠れしていた弱さと繊細さを、この人は置いていく。あゆはあゆらしく、自分のやりたいように音楽の道を生きていくのだろうと思った。そして、私は私で、あゆの詞に耳を澄ませ、声を殺して激しく泣いた、あの静かな夜を、きっとこれからは掻き抱いたりはしないんだろうと、このアルバムを聴いたときに感じたのだ。

もう迷ったりしない 後悔なんてない
あなたと出会うのは運命だったの
あたしである意味を 存在する意義を
与えて教えてくれるのはいつも
あなただから


進みたい進めない そうやって迷って
いるって事はもう 迷ってない
ここで留まるなら いくらか楽かもね
だけど胸を焦がす 刺激もない

アルバム収録曲は、どれもこれまでの浜崎あゆみ自身を、そしてあゆの行き場のない飢餓感に共感してきた私を、したたかに突き放すような内容だった。特に「Don't look back」のPVでは、あゆが2007年に発売した「A BEST 2」のジャケットが、ズタズタに傷つけられ、バツを付けるかのように赤く塗り潰されている。


私たちは、私たちにしかわからない感情を、もう共有しない。

それはさみしくて、悲しくて、だけど誇らしかった。あゆの音楽は、私の孤独そのものだったから。独り善がりな孤独から、渇きから、彼女は立ち上がって歩いていく。私には、希望の見えるような、別れだった。


私は、あゆの音楽を聴かなくなったけど、それはあゆが嫌いになったからじゃない。だって、2010年までの曲なら全て覚えているのだ。シングルも、アルバムも、2008年に発売されたコンプリートアルバム「A COMPLETE~ALL SINGLES~」も、一枚も捨てずにいまも持っている。

調べたら、今月「オヒアの木」という曲がリリースされていた。私の知っているあゆは、絶対に英字タイトルしかつけない人だった。あゆも、私が聴かなくなった10年間にあゆの人生を歩いてきて、誰にも告白しようがないほどの孤独の向こうに、ちいさな光を手に入れたんだなと思った。

あゆの詞は、多くのときで「君」と呼び掛ける。
これだけは昔から変わらないみたいだ。

あゆは、「私」を見つけてくれる。

きっと、そのとき「浜崎あゆみ」が必要な人のために、あゆ自身が必要とする誰かのために、この人はこれからも歌っていくんだろう。彼女の音楽を愛さない人たちに理解されないことなんか、そんなものだと落とすように笑って。孤独も、悲しいことも絶望も、嬉しいことも幸せも、全部さらけ出して、詞の中に詰め込みながら。彼女の全てで、訴えてぶつかりながら。

そうして、きっとまた、勇気になっていくんだろうね。


今日がとても悲しくて
明日もしも泣いていても
そんな日々もあったねと
笑える日が来るだろう


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