顔のない女などいない
セリーヌ・シアマ監督作品、映画「燃ゆる女の肖像」を観た。メニエール病を罹患してからの私はほとんど映画から遠ざかっているので近年の傾向はさっぱり浦島太郎なのだけど(映画館であれ家であれ長時間視聴することに負荷が強くすごく体力と気力を使うため足踏みしてしまうのだった)、2020年に映画好きの中で盛り上がっていたのが鮮明で、久しぶりにあぁ観ておきたいな、と思ったのだ。地元ではもう上映したのだろうかと調べたら、1月15日から2週間だけ上映するというので楽しみにしていた。
1月15日に早速予約したものの当日体調を崩したため、1週間後の1月22日に観た。面白かった、という感想はどうもそぐわないような気がする。約2時間没入した、というのもやはり違うような感覚で、それというのも前評判をあちこちで観すぎたせいもあってか、私はこの映画がどういう類いのものかを知っていて、ゆえにずっと女と女を取り巻く環境について考え事をしながら観ていた、と述べるのが最も相応しいのではないかと思う。思索していた。2時間、私は思索していた。気を散らすことはほとんどなかった。いつもなら半ばを過ぎたあたりで「この映画はあと何十分あるのか」「ここからどんな劇的な展開が」などと考えるけれどそういうこともなく、いや、散漫にならなかったのは私が体調を崩さぬよう音響障害用の耳栓と聴覚過敏用のイヤマフを重ねづけして画面以外の気配を全てシャットアウトしていたからなのかもしれないが、それにしたってあらゆる場面の端々から立ち上る、エロイーズの静かなる、エロイーズを代表とするありとあらゆる種類の女たちの繊細な怒りがあまりにも凄まじかったので、私はずっと釘付けになっていた。
〈 以下、ネタバレ 〉
怒っている、と思った。実際、劇中でもマリアンヌがエロイーズについて「彼女は怒っているだけです」と代弁する。女の女による女のための愛の映画だと語られているのをどこかで読んだように思い出すけれど(ああどうして私はいつもリンカーンの人民の人民による人民のための政治という言葉をすぐに忘れてwebで「リンカーン 人民」と検索してしまうのだろう)、女が女を愛するための映画である一方、これは本当に、どんなにかパリテ法が適切に運用されMe tooが叫ばれ連帯し多様性の名の下に同等の社会的地位を得つつあっても、今はまだ燃え尽きることのない女の怒りの映画だと感じた。伝統的な女性であることを強いる男へ向け、母へ向け、社会へ向け、あるいはその枠組みを超えられぬ自分自身へ向け、燃ゆる女はずっと燃え盛っていた。今も私のうちで燃え盛っている。こんなに怒っている映画を、私は観たことがない。
死んだ姉の代わりにミラノへ嫁ぐ、ミラノにいるという以外の情報を何も知らぬ男へ嫁ぐことを拒んでいるエロイーズの肖像画を、マリアンヌは伯爵夫人から託される。エロイーズは先に来た男性画家に決して顔を見せず、顔を描かせなかった。マリアンヌは彼が残していったエロイーズの肖像画を見て息を呑む。息を呑んだその絵画を、自分が描いた最初の肖像画が完成する間際、夜中に佇んだ彼女は改めて照らし出し火をつけて燃やす。蝋燭に灯された火が舐めるように女の肖像画を撫でてゆき、てらてらと油が光り、半円を描き心臓に辿り着いたところで火はカンバスに燃え移る、燃え移った火は男が描いた顔のない肖像画を燃やす──そう、顔のない女の肖像画を燃やす! 顔のない女の肖像画を燃やした後でマリアンヌは「完成した」と伯爵夫人に言い、伯爵夫人に見せるより前にエロイーズに自分は画家であることを明かす。マリアンヌが盗み見ながら描いた肖像画をエロイーズに見せたとき、エロイーズは「これは私ではない」と言う。エロイーズとの口論の末、マリアンヌは自分が描いた女の肖像画の顔もまた、剥ぎ取ってしまう。肖像画はやはり顔をなくすのだ。顔のない女の肖像画!
顔のない女などいない。けれど、世間は女には顔がないのだと思っている節がある。男は女の顔を描けすらしないし、女自身もまた女の顔を正視できているとは言えない。顔とはあらゆるものの比喩だ、自我であり自尊心であり能力であり知識であり力であり立場であり、本当にあらゆるもの。立て続けにスクリーンに映し出される「顔のない女の肖像」から、怒濤に、暴き立てるように、女であるとはどういうことなのか、女が女を生きるとは、女が女を愛するとはどういうことなのか(これはレズビアン的な意味だけではなくもっと大きく社会学的な、あるいは哲学的な問い)を繰り広げてゆく。
いや、実際は、もっと早い段階から女を取り巻く環境についてこの映画は示唆していた。マリアンヌは仕事を持ち独立した女性であり、他方、エロイーズは長年の慣習に従い本人の意思なく家のために嫁がねばならない令嬢である。先駆的な女性と、因習的な女性。この表象は、海辺のシーンでこそ象徴的である。マリアンヌは冒頭から自らの意思で海──これは社会の暗喩だと思う──に飛び込み自力で泳ぐが、エロイーズは、最初に「泳ぎたい」と口にしたときはマリアンヌに「波が高い」と言われて諦め、次には彼女自身の意思で「泳ぎます」と宣言したものの泳ぐことはできず、どころかマリアンヌには「辛うじて浮かぶことはできた」と感想を言われてしまうほどだ。
二人が音楽について語ろうとするとき、独立した女性であるマリアンヌによりミラノはいいところだと話を聞き、自ら道を選ぶことのできないエロイーズは少しの間を取って「あなたのような女性にそう言われると慰められます」と答える。けれど本当に、マリアンヌは独立した女性であると言えるだろうか? エロイーズは古い女だと?
伯爵夫人が名誉男性である点は言及するまでもないが、手に仕事を持ち自分の意思で生きているかのように見えるマリアンヌも、結局は社会的な枠組みからはみ出すことを許されておらず(それはもっと後、エロイーズの肖像画を描いている途中で彼女自身から語られる──「女性だから描ける主題が決まっている」と)、また本人の思想も当初はどこか因習的である。マリアンヌはエロイーズの怒りを察してはいても、彼女の定められた結婚をどうにかしようという気はなく、伯爵夫人の言うとおりのことしかしない。画家であることを明かさずただの散歩相手として振る舞えばいい、ということにさえも、職人の自尊心を見せずその通りにするのである。古いしきたりに逆らい、「私は私であり、女という名前の私ではない」と独立した精神性を冒頭から表しているのはむしろエロイーズであり、走りたい、泳ぎたい、本が読みたい、一人でいたい、音楽を聴きたいと、彼女は自分を満たす術を自らの口で明確に主張するのだ。マリアンヌはそれに触発されてゆくことで、本当は納得していなかった──職人として正しくエロイーズと捉える気がなく依頼主である伯爵夫人の希望どおりに唯々諾々と「とりあえず仕上げた」最初の肖像画の顔を剥ぎ取ることができ、ようやくエロイーズを「見る」ようになる。
女の身体は女のものだという主張も随所に組み込まれている。使用人のソフィは身篭もったことを告白し、中絶する意思をマリアンヌに話す。マリアンヌには中絶の経験があることも示される。ここで興味深いのは、自らの意思で子を堕ろす女だからと言ってその人間に愛がないということではなく、また、子を育てる意欲のない女は家庭的ではない(家庭向きではない)というわけではないことが表現されていることだ。堕胎のシーンではソフィに子どもたちが寄り添っていて彼女はそれを愛おしげに見つめるし、ソフィは家庭に閉じ籠もる女性の手慰みであった刺繍をしている。たびたび、ソフィが一人静かに刺繍をしている場面が映し出される。あるいは、自らの意思でかつて子を堕ろしたのだろうマリアンヌはソフィの堕胎から目を背けようとし、語られることはなかったけれども、もしかしたら、例えば、マリアンヌにとって中絶は本当に辛い経験で、自らの仕事と子どもを天秤に掛けざるを得なかったことを苦しんでいるのかもしれないなどと想像させた。つまり、人は多面的で事情も様々だということだ。
そして、エロイーズが「見るのよ」とソフィから顔を逸らしたマリアンヌに強く言うところは印象的だ。彼女はさらに、ソフィの堕胎を絵として残しておこうと促す。どんな感情がそこにあるのかが言語化されることはないが、女の身体をよく見ている、よく知っているのは他の誰でもなく女自身である、リプロダクティブヘルツライツについて、女たちの主張から目を背けるべきではないという確固たる意志のようにも思われた。エロイーズ演じるアデル・エネルが脇毛を剃らずに撮影に臨んでいることからも、「世間が求める女性の身体」ではなく「他者の眼差しに左右される必要のない自分だけの身体」を意識するには十分だろう。
エロイーズ(貴族)、マリアンヌ(知識人)、ソフィ(労働者)の三人が、この堕胎のシーンでそれぞれの階級を超えて連帯することは、まさしくMe too運動を想起させる。女として生まれた誰しもにとって、女の身体を女のものとすることは他人事ではなく自分事なのだ。女が女の身体を女のものとする、そこに異性の視線や意見や欲望など、何も必要ではない。
男性視点が意図的に消されている中で、男について一度だけ言及された。ギリシャ神話のオルフェウスとエウリュディケについて、女三人で語らうシーンである(ここは、使用人であるソフィに恐らく学がないのでエロイーズが音読しているのだと思われる。貴族が労働者階級に読み聞かせをすることの暗喩は、どのような生まれの人間にも学ぶ権利はあるということだ)。
ソフィは冥府からエウリュディケを助けてあげたいと言い、振り向いたオルフェウスに激高する。「なぜ振り向いたの? 振り向いてはだめだと言われたのに!」マリアンヌは何よりも妻に同情するソフィに対し、きっと理由があったのだと宥めると「彼女のことが心配だったのよ」と説明する。まるで理性的であるかのようだが、性善説に立った男心を解釈「してあげている」ように考えれば、名誉男性的発想だと思う。一方で、エロイーズは「妻の方が夫を誑かしたのかもしれない」と笑う──キリスト教文化圏においてあまりにも伝統的すぎる「罪は女にあり」の発想がエロイーズから飛び出るのは、皮肉を言っていると受け取ればよいのか、先駆的な、自立の精神を持つ女性であっても社会の因習的思想を背負わずにはおれないと読めばいいのか迷うところである。しかしマリアンヌにしてもエロイーズにしても、オルフェウスがなぜ振り向いたのかを男性側から語ろうとする点においては相違なく、ここではただソフィだけが純粋に「なぜ」をルールを犯す理不尽な男に問い、真に女性としての視点のみで話すのが面白い。知識がある者は、相手の理不尽な態度に自分がどうにかして納得できる解釈を見出そうとし、どんなにか腹が立っていたとしても理性によって話にケリをつけようとするのだ。ソフィのようにもっと怒っても構わないはずなのに、私たちはどこかで、他者の勝手によって自らの何かを失うとしてもそれを許容できることこそが優れた人間だと思っている。
話は逸れるが、ギリシャ神話のような異教の神々への信仰を飲み込んで、キリスト教は発展してきた歴史がある。処女を重んじる文化が残る国は多いと思うが、こと、キリスト教文化圏における処女といえばマリアであり、マリアの処女懐胎──女に意思は必要なく、女とはただ子を身篭もる装置である処女懐胎──はこれら異教に触発されたことを起源にしていると考えられているため、ギリシャ神話に怒るというのは、男性性の優位性をより強固に肯定したものに対する怒りのように読めて個人的には興味深かった。しかも、堕胎の話の流れで突如としてオルフェウスの冥府下りが現れるので。
オルフェウスの冥府下りの話からマリアンヌとエロイーズの別れが始まってゆく。エロイーズがマリアンヌのおのれへの愛を問い、マリアンヌがそれに答えず、エロイーズは怒って一人海へと向かう。少しの時間を後、焦燥と共に彼女を追いかけたマリアンヌがエロイーズに許しを請う場面に、私は不思議な既視感を覚えていた。既視感を覚えると同時に、なぜマリアンヌは許しを請うのだろうとも思った。既視感の正体は映画館を出てから気づいた──エロイーズの姉は「許して」と遺し、崖から飛び降りて海で自殺した。海を社会の暗喩と先に書いたが、その論に拠るなら姉は変わらずそこにある社会に殺されたようなものである。二人が近しくなるよりずっと前、姉の自殺の遺言についてマリアンヌがどういう意味かと問うたとき、エロイーズは答えを濁す。問うた人間が同じ言葉でエロイーズに縋る。エロイーズは因習によって求められる通りに生きる他なく、マリアンヌはそれを救う手立てを持たない。愛すること、愛してしまったこと、愛のために全てを擲つことができないこと、応えられないけれども愛していること、エロイーズは物理的には海に飛び込むことなく彼女の自尊心を殺し他者から押しつけられたものを背負い生きてゆくがその代わりにマリアンヌは許しを請う。何度も何度も、キスをしながら。
島で二人が別れるとき、エロイーズはマリアンヌに振り向くよう唆す。「見る」──。2枚目の肖像画を描いているとき、私もあなたを見ています、とエロイーズがマリアンヌに教えた言葉を思い出す。もしかしたら本当に、エウリュディケがオルフェウスに振り向くよう唆したのかもしれない、けれどそれは「罪は女にあり」ということではなく、エロイーズの立場からすれば、目の前をゆくあなたがどのように振る舞うのかを、誰の何の愛のためにあなたがどの選択を取るのかを、決して自力では抜け出せないところ(古い時代)にいるこの目で見ているという意味だったのかもしれない。
マリアンヌとエロイーズの最初の再会は、父の名によって作品を出展したサロンで、彼女たちを繋いだ肖像画によって成される。いい作品だと男性に褒められ、隠すことなく「私が描いた」とはっきり話すマリアンヌは、エロイーズを盗み見て描くことを強いられた意思なき画家とは明らかに異なる。未だ出展には男の名を借りねばならない時代に、それでも女が女として独立して社会的に成功するそのときに絵という形ではあるがエロイーズは立ち合う、つまり「見ている」のである。
二度目の再会のとき、エロイーズはマリアンヌを見なかった。気づいていなかったわけではないだろう。強い意志を持って彼女はマリアンヌを見なかった。見ないことが彼女の愛であり、望まずに飲み込まれてしまった社会の中で頽れることなくそこにあるための、彼女の自尊心なのだった。でなければ、あまりにもまわりにカップルばかりが座っているボックス席の中、貴族である女が一人で観劇に来るわけがないのだから。エロイーズは最初から最後まで、ずっとエロイーズだった。
上映中、考えていたことが多すぎて掬いきれているとは到底言えない。ずっと、きちんと見ろ、と言われている気がしていた。漫然とではなくこの現実を直視しろと。生まれによって家を出てゆけぬ女がいること、独立した女であっても社会には障害が多いのだということ、意識的であれ無意識的であれあらゆるものに女は抑圧されているということ、男の名や言葉を借りねばならないことがあること、女の身体は女のものだということ、どんな女──これは女ではなく人間と表現したほうが相応しいだろうが──にも学ぶ権利はあるのだということ、これは美しく同性愛を描いただけの映画ではなく、本当に、本当に、今この瞬間に激しく燃え盛っている怒りの炎を、見ている側に突きつけている。女として生まれたことを愛するがゆえに。女として生まれたことを悲しむべきこととしないように。
独立しているマリアンヌは赤いドレスを着、因習に捕らわれているエロイーズは青いドレスを着ていた。赤の方がより炎を想起する人間が多いだろうが、エロイーズの方こそがずっと内側に火をくべていたことが印象的だった。私たちの怒りは表面的ではない、もっと深いところにある、夜の奥深くでごうごうと燃え盛る火があるのだということを、社会のために昼は調和的な顔──だからこそ肖像画のドレスは緑なのだと思う──をすることはあっても、暗闇の中でも決してその火は絶えず風に吹きすさびながら音を唸らせおまえたちの目の前で常に燃え続けているのだということを、見させられているのだと思った。
顔のない女などいない。顔のない女など、絶対にいないのである。