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「障害者アート」、いつまでそう呼ぶ?


「障害者アートという言い方ってどうにかならないのかな」

 職場で催される福祉イベントを眺めながら、同僚とそういう話になる。私は美術史を専門に学んできた人間としてそう思うし、同僚は一障害児の親として腑に落ちないものを抱えている。
感性と表現について、「健常」と「障害」の区分けは本当に必要なのか。

障がい福祉の現場において「障害者アート」と敢えて名乗ることで、障害への理解を促そうとしていることは理解している。けれども、そのように「障害者アート」という枠組みを自ら設けつづけることは、見えないガラスの間仕切りを、目の前に立てつづけることではないのかとも思う。

「障害」は、その人が持っている「特性」を指すのではない。
人と人を阻む「社会の仕組み」こそが「障害」なのだ。

社会の仕組みは日常のなかにあるから、いつも私たちに影響している。

障害者アートを「すごいね」と評価する人のなかには、作品そのものの価値ではなく、「障害者“なのに”すごい」という含意の発言が少なくない。もちろん、そうではない人も大勢いるけれども、日頃「障害のある人はやっぱり感性がすごいねえ、私には思いつかないわ」などの感想を間近で聞いていたりすると、「“やっぱり”とは?」と眉をひそめてしまう。
そういうとき、とても複雑なきもちになる。
就労センターから届く商品を見る都度、ある特性を持つ人のなかにだって作品づくりが苦手な人は当たり前のように存在しているし、それは通常学級で育ってきた私たちの個性のちがいとなんら変わらないものだ。
絵が得意な子がいれば、工作が得意な子もいて、一方で、苦手な子もたくさんいる――。感性と表現のちがいは「個性」でしかなく、それは「特性」ではないのではないか。


芸術家や美術史家は、時代の作品群を「流行・傾向」や「主義・主張」、あるいは属する「芸術家グループ」で区分けして、様式や流派の名前をつける。アウトサイダー・アートやアール・ブリュットはそれらに類する呼称だが、果たして「障害者アート」という言い方はどうなのだろう。

「アール・ブリュット」と「障害者アート」の呼称は、日本においては並列的に、あるいは多くの場合、イコールで結ばれて使用されている。

だが、フランスの画家ジャン・デュビュッフェが名づけた「アール・ブリュット(Art Brut)」の本来の訳語は「生の芸術」だ。
彼は、精神病院を訪問した際に強迫的幻視者や精神障害者の作品を見て、それらを「西洋の伝統的な美しい芸術に属さず」「反文化的である」と見なし、深い精神性とその衝動が剥き出しになった作品群を「アール・ブリュット」と呼んだのであって、その呼称を、日本における「“障害者が”制作した作品」ないし「障害者アート」と対応させることは、アール・ブリュットについて本意的ではない。

デュビュッフェは「作品から人」を見たが、「人から作品」を見たわけではない。アール・ブリュットとは、作品の傾向を指し示すものであり、制作者が何者であるかを明らかにするための言葉ではないのだ。


たかが名前だがされど名前、ではないだろうか。

私たちは「そう」聞けば、「そういうもの」として見てしまう。例えば、目の前の壁の落書きがイギリスのストリートアーティストであるバンクシーが描いたものだと聞けば、対象への見方を「ただの落書き」ではなく「バンクシーの作品」へ変化させてしまうように。

だから「障害者アート」という枠組みや呼称について、どこかでそれらに触れるときに、ひとりひとりが少し考えることがあったらいいなと思う。感性や表現は「健常か、障害か」で区別すべきものなのだろうか。私と同僚は「きもちはわかるけど、なんかちがうよね」と思っているし、ときに、かえって心のバリアがあるような気がしてならないのである。



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